八田知家
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八田 知家(はった ともいえ)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。
系図などによる異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家(読み同じ)と名乗ったという記述もある。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田城の築城者。
生涯
保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝側について戦い、功績をあげる。治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵に早くから参じており、同年には下野国茂木郡地頭職を安堵された。寿永2年(1183年)野木宮合戦に参加。元暦元年(1184年)8月の源範頼率いる平氏追討軍に従軍。文治元年(1185年)4月、前年に源義経が無断任官で頼朝の怒りを買った際、知家も右衛門尉に任官しており、頼朝から「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け馬が道草を食うようなものだ」と小山朝政と共に罵倒されている。文治5年(1189年)7月の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍に任ぜられ、福島の浜通りから奥州藤原氏を追い詰めた。
建久4年(1193年)、曾我兄弟の仇討ちをきっかけに、従兄弟である常陸大掾氏の多気義幹を北条時政と共に罠にはめて領地を没収し、自分の本拠地を下野から常陸に移し守護に補任した。
建久7年(1196年)には降伏して捕らえられた平景清を自邸に預かっている。
建久10年(1199年)、頼朝が没し、後を継いだ2代将軍源頼家の専制を抑えるために結成された十三人の合議制の一人となる。建仁3年(1203年)には頼朝の弟で頼家の叔父にあたる阿野全成が北条氏とともに反頼家派を形成したことから、先手を打って北条氏に対抗した頼家の下知により、全成を誅殺した。