姉小路良頼
テンプレート:基礎情報 武士 姉小路 良頼(あねがこうじ よしより)は戦国時代の武将、大名。飛騨三木氏、のち姉小路氏当主。三木直頼の嫡男。
天文23年(1554年)に父が病死したため、家督を継承する。永禄元年(1558年)に従五位下・飛騨守となる。翌年には長男の自綱に国司・姉小路家の名跡(古川姉小路氏)を乗っ取り継承させ、永禄5年(1562年)には自らも姓を三木から姉小路に改めた。一連の過程は朝廷で問題視され、三木氏による姉小路飛騨国司家(小一条流藤原氏)の継承(僭称)を認めるか否かで朝議は紛糾したが、良頼の政治工作により認められることとなった。
これらは、飛騨統一支配の大義名分獲得および朝廷から中納言の官職を得るためであったというが、中納言任官は果たせなかったと言われている。しかし良頼はよほど中納言の職に執着があったのか、勝手に中納言を自称した。永禄3年(1560年)に従四位下、永禄5年(1562年)には従三位に叙任されている。
北飛騨の江馬時盛との対立は続いており、永禄年間に江馬氏が甲斐、信濃を支配する武田氏の援助を受けその傘下におさまると、越後、越中を支配する上杉謙信と誼を通じる。しかし、永禄7年(1564年)、武田信玄の武将である山県昌景や木曾義昌の侵攻を受けて降伏し、江馬氏に領土の一部を割譲するなど譲歩を迫られた上に武田氏の傘下となることを余儀なくされた。しかし、密かに謙信となおも通じ合っていたといわれる。また、元亀元年(1570年)には自綱を上洛させ、足利義昭、織田信長と誼を通じるなど、なおも独自勢力を維持した。自身も上洛し、4月14日には義昭や信長とともに能を鑑賞している。
元亀3年(1572年)、謙信の要請により越中に出兵するように要請を受けたが、病のために出陣できず江馬輝盛を代理として派遣した。また同年10月18日には嫡男頼綱を派遣することを謙信に申し送っている。同年11月12日没。