大橋家
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(大橋本家から転送)
大橋家(おおはしけ)は江戸時代の将棋家元(将棋三家)の一家。初代大橋宗桂が祖。将棋三家には分家である大橋分家があり、それとの区別で特に大橋本家とも呼ばれる。身分は御用達町人。
概要
二代宗古の時代に大橋分家・伊藤家の将棋三家による家元制度を確立したが、大橋家は宗古の孫の四代宗伝の早世で断絶の危機を迎え、伊藤家より養子(五代宗桂)を迎えようやく存続した[1]。以後も五代宗桂の養子の六代宗銀が伊藤家の伊藤印達との57番勝負に負け越す[2]など不振が続き、再度伊藤家より養子を迎えることとなる(八代宗桂)。八代宗桂の子の九代宗桂が八世名人となるも、以降は目立った活躍もなかったが、十一代宗桂の門人から天野宗歩と小野五平が出ている。
明治時代になり、他の将棋三家と共に家元としては廃絶したが、子孫は現存している[3]。
初代宗桂の墓所は京都の本法寺教行院にあるが、二代宗古の墓石は行方不明となっている。三代宗桂以降の歴代当主の墓所は伊勢原市の上行寺。1928年に東京都より史蹟指定を受けている[4]。
九代大橋宗桂らが残した「大橋家文書」が発見され、江戸時代の将棋指しの実態を知る上で貴重な資料となっている。
歴代当主
- 初代大橋宗桂(1555年 - 1634年)。九段。一世名人。大橋家の祖。次男の宗与は、大橋分家の祖となる[5]。
- 二代大橋宗古(1576年 - 1654年)。九段。二世名人。初代宗桂の子[6]。
- 三代大橋宗桂(1613年-1660年)。七段。二代宗古の子。献上図式(詰将棋)を準備していたことから、次期名人候補であったと推測されている。5歳年下である伊藤家の初代伊藤宗看に追い抜かれる形となり、名人にはとどかなかった[7]。
- 四代大橋宗伝(1638年 - 1662年)。五段。三代宗桂の子。1660年に家督を継ぐも2年後に早世[8]。
- 五代大橋宗桂(1636年 - 1713年)。九段。四世名人。伊藤家初代伊藤宗看の子。二代宗古の外孫。初名は宗銀。伊藤家から養子に迎えられる[9]。
- 六代大橋宗銀(1694年-1713年)。五段。五代宗桂の養子。伊藤家の伊藤宗印の長男である伊藤印達(五段)との57番勝負で知られている。4番手直りで、最後は角落ちまで指し込まれる。1713年に家を継ぐもその年のうちに死去[10]。
- 七代大橋宗桂(1688年?-1753年)。七段格。六代宗銀の早世により急遽、家督を継ぐ。出自は不明。御城将棋はたった5局しか行っておらず、1724年(享保9年)には早々と伊藤家より養子を迎え隠居した[11]。
- 八代大橋宗桂(1714年 - 1774年)。八段。七代宗桂の養子。二代伊藤宗印の三男。前名は伊藤宗寿[12]。
- 九代大橋宗桂(1744年 - 1799年)。九段。八世名人。八代宗桂の子。初名は印寿。[13]。
- 十代大橋宗桂(1775年 - 1818年)。七段。九代宗桂の養子。初名は宗銀[14]。
- 十一代大橋宗桂(1804年 - 1874年)。八段。十代宗桂の子。初名は宗金[15]。
- 十二代大橋宗金(1839年 - 1910年)。五段。十一代宗桂の子[16]。
系譜
初代大橋宗桂━┳━二代大橋宗古━━━━━━━━┳━三代大橋宗桂━━━━━━━━━┓ ┗━初代大橋宗与(大橋分家祖) ┗━女(伊藤家祖初代伊藤宗看室) ┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗━四代大橋宗伝=五代大橋宗桂=六代大橋宗銀=七代大橋宗桂=八代大橋宗桂(二代伊藤宗印の子)━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗━九代大橋宗桂=十代大橋宗桂━十一代大橋宗桂━十二代大橋宗金
脚注
- ↑ 大内延介・天狗太郎『名匠の棋跡』29頁
- ↑ 大内延介『将棋の世界』88頁
- ↑ 江戸期家元・大橋家子孫の井岡さん、棋譜、家系図など500点
- ↑ 茶屋軒三「将棋名人の寺蹟を散歩しよう」(「江戸の名人」番外編)(『将棋世界』2012年3月号145頁)
- ↑ コトバンク
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参考文献
- 増川宏一『碁打ち・将棋指しの江戸―「大橋家文書」が明かす新事実』(平凡社、1998年)ISBN 4582841805
- 増川宏一『将軍家「将棋指南役」将棋宗家十二代の「大橋家文書」を読む 』(洋泉社、2005年)ISBN 4896918916