大宝寺義増

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大宝寺 義増(だいほうじ よします)は、戦国時代の大名。出羽国庄内地方の武将。大宝寺氏第16代当主。出羽三山別当職。大宝寺義氏大宝寺義興の父。武藤義増とも呼ばれる。

概要

義増の周辺の系図には諸説あり、義増は大宝寺九郎の子で前当主の大宝寺晴時の従兄弟に当たる(祖父は大宝寺政氏)。ちなみに義増の別名として「晴親」(はるちか)が伝わっているが、これは晴時と同じく将軍足利義晴から1字を与えられたものとみられる。義増の「義」の字も時期的にみて義晴またはその子・義輝から賜ったものであろう。

晴時の死後、土佐林禅棟の援助により後を継いだが統率力が無く、領内では内紛が絶えなかった。そのため、元々結びつきのあった越後国本庄繁長や仙北の小野寺景道の援助を得ることで命脈を保ったと言われている。

一時最上氏の家臣の清水氏と抗争し、永禄8年(1565年)には清水義高を合戦で討ち取り一時は村山郡に進出を果たしたものの、直ぐに上杉軍によって撤退を余儀なくされている。また、永禄11年(1568年本庄繁長の謀反に荷担したが、上杉氏に本庄氏よりも先に軍を差し向けられるとすぐ降伏し、息子の義氏を人質として謙信に差し出し陳謝し、翌年に上杉氏によって義氏に強制的に家督を継がされると隠居(死去とも)した。

また、惣領が殺され、一時期庄内に逃亡してきた小野寺景道を匿った縁で小野寺氏との交流が生まれることになった。永禄6年(1563年)には佐々木貞綱を打ち破り、当時幼少だった鮭延秀綱を捕虜として庄内に連行している。