大多喜新田藩
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大多喜新田藩(おおたきしんでんはん)は、上総国夷隅郡内に存在した大多喜藩の新田支藩だった藩。内分分知。諸侯に列するも江戸定府で居所はなく、便宜上「新田藩」と呼称される。
藩史
大多喜新田藩は慶安4年(1651年)、阿部重次が殉死した後、その遺領である9万9000石と家督は子の阿部定高が継いだ。このとき、弟の正春にも新田分である1万6000石が与えられて、大多喜新田藩を立藩したのである。定高は万治2年(1659年)に死去。定高には嗣子に阿部正邦がいたが、まだ幼少であったため、正邦が成人するまでの繋ぎとして正春に家督を譲った。このため正春は、新田藩1万6000石に加えて9万9000石、合わせて11万5000石の所領を領することになり、大多喜新田藩は廃藩となった。
歴代藩主
三浦(みうら)〔阿部(あべ)〕家
譜代。1万6000石。
- 三浦(阿部)正春(まさはる)<従五位下。伊予守>