士孫瑞

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士孫 瑞(しそん ずい、129年 - 195年)は、中国後漢の政治家。君栄(または君策)。扶風郡平陵の人。『後漢書』「王允伝」や『三国志』魏志「董卓伝」本文及び董卓伝が引く『献帝紀』に記録がある。士孫奮の従子(『三輔決録注』より)。士孫萌(字は文始)の父。

代々学者の家柄で、彼自身も博学多才であった。後漢王朝の尚書僕射を務めた。

董卓が実権を掌握して専横を極めると、司徒王允や董卓の部下の呂布と協力して董卓暗殺の陰謀を企み、成功した。董卓暗殺後、国の三老となり大司農(『後漢書』では光禄大夫)に昇進した。王允や呂布が滅ぼされ、李傕が実権を握った朝廷においても生き延びた。士孫瑞は三公の候補者に常に挙げられ、高官に昇った周忠・皇甫嵩・淳于嘉・趙温・楊彪・張喜も、一度は地位を譲ろうとしている。

献帝長安から脱出した際、尚書令の地位にあり、それに同行した。献帝の一行は、奪還に来た李傕・郭汜の兵に弘農で追い付かれ、警護に当たっていた楊奉達が敗れたため、多くの公卿百官が殺されたが、士孫瑞もその中に含まれていた。

献帝は曹操の庇護を受け許に都を定めると、士孫瑞の功績を評価し、子の士孫萌に侯の地位を与えた。士孫萌は文学に優れ、王粲の親友であったという。

参考資料