楊奉

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テンプレート:出典の明記 楊 奉(よう ほう、? - 197年)は、中国後漢末期の人物。元は配下の部将。性格は勇猛であったが、思慮が浅い人物と評された。また曹操などは彼の軍勢が精強だったと言っている。

経歴

姓名 楊奉
時代 後漢時代
生没年 生年不詳 - 197年建安2年)
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 〔白波軍武将〕→将〔李傕〕</br>

→興義将軍〔後漢〕→車騎将軍〔後漢〕

爵位・号等 -
陣営・所属等 〔独立勢力〕→→〔独立勢力〕</br>

袁術呂布

家族・一族 〔不詳〕

元々は黄巾党の一派である河東(現山西省南部)の白波賊の頭目であり、後に仕官して李に仕えた。李の政治姿勢への疑問から、同僚の宋果と共に暗殺を謀ったが失敗したため、李の下を離れて独立することとなった。

後に部下だった徐晃の進言に従い、献帝を連れて李傕の下から洛陽に落ち延びた時、楊奉は董承らと共に李軍と戦った。楊奉らは李軍に散々に敗れ、楊奉は古巣である韓暹[1]の救援を頼るまでに追い込まれるも、李と和睦したことで献帝を洛陽に護送することが出来た。

この功績から車騎将軍に任命されたが、董承・韓暹及び合流した張楊らの間で抗争が起こった。そのとき董昭が曹操の手紙を偽造して楊奉を欺いたため、曹操の介入を招いた。曹操は楊奉を騙して、献帝を自分の勢力下であるへ連行したため、楊奉との対立は武力抗争に発展した。この戦いで楊奉は曹操の奇襲により兵を失い、徐晃も曹操に降伏したため、袁術の下へ落ち延びた。

その後、袁術の武将として呂布と戦ったが、建安2年(197年)夏に袁術が帝位を僭称したため、楊奉は韓暹と共に陳珪の説得に応じて呂布に寝返り、袁術軍大敗の原因を作った。その後、楊奉は韓暹と共に海西(揚州徐州の境目)周辺に駐屯した。だが同年末に、呂布の襲撃を受け逃れて来ていた劉備に宴席で謀殺された[2]

関連人物

脚注

  1. 以降も最期まで楊奉は韓暹と運命を共にする
  2. その後、すぐに韓暹も殺された