坂田和人
テンプレート:Infobox motorcycle rider 坂田 和人(さかた かずと、1966年8月15日 - )は、オートバイレーサー。東京都江東区出身。1994年、1998年にロードレース世界選手権(WGP)の125ccクラスでシリーズチャンピオンを獲得している。
来歴
1988年にロードレースにデビュー。同年に筑波選手権(ノービス)のシリーズチャンピオンを獲得したほか、1989年には全日本ロードレース選手権のジュニアクラスでシリーズチャンピオン、1990年には全日本選手権の国際A級・125ccクラスでシリーズチャンピオンを獲得した。
1991年より、若井伸之・上田昇と共にWGP・125ccクラスにフル参戦、プライベート日本人ライダーの先駆者となった。以後1999年まで一貫して125ccクラスに参戦を続け、1994年と1998年にシリーズチャンピオンを獲得。このほか1993年・1995年はシリーズ2位に入るなど、125ccクラスを代表するライダーとして活躍した。特に1995年は青木治親が同クラスのシリーズチャンピオンを獲得しており、日本人がシリーズランキングの1・2位を占めるという快挙も達成している。しかし2000年、引き続きWGPへの参戦を目指したが、数チームとの交渉の末、諸条件が折り合わず、参戦休止を発表してWGPから撤退した。
それ以後はライダーとしては一線を退き、筑波サーキットでの開催時を中心に全日本ロードレース選手権へスポット参戦する一方で、2輪のレース中継のテレビ解説やレーシングスクールの講師など、多方面で活躍している。現在は日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)の主催するMFJレディースロードレースの講師を務めるなど、女性ライダーの育成にも積極的である。
ただし2011年8月に東京中日スポーツの対談企画に登場した際には「再びレースに出るためにはトレーニングが必要」と筋肉等の衰えを認めつつも「引退はしていない」「適切なオファーがあればレースに出る用意はある」と語り、現役復帰をあきらめていない姿勢を示している[1]。
記録
- 1988年 - ロードレース筑波選手権ノービスチャンピオン
- 1989年 - 全日本ロードレース選手権ジュニアチャンピオン
- 1990年 - 全日本ロードレース選手権国際A級125チャンピオン
- 1991年 - WGP・GP125ランキング13位/ホンダ(PP1回)
- 1992年 - WGP・GP125ランキング11位/ホンダ(PP3回)
- 1993年 - WGP・GP125ランキング2位/ホンダ(2勝・PP6回)
- 1994年 - WGP・GP125年間王者/アプリリア(3勝・PP7回)
- 1995年 - WGP・GP125ランキング2位/アプリリア(2勝・PP5回)
- 1996年 - WGP・GP125ランキング8位/アプリリア(PP1回)
- 1997年 - WGP・GP125ランキング4位/アプリリア(PP2回)
- 1998年 - WGP・GP125年間王者/アプリリア(4勝・PP4回)
- 1999年 - WGP・GP125ランキング14位/ホンダ
※年間王者2回 世界選手権優勝11回(歴代12位) 表彰台41回(歴代3位) ポールポジション29回(歴代2位)
年 | クラス | チーム | マシン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | ポイント | 順位 | 勝利数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:MGP | 125cc | ELF Kepla-Meiko ホンダ | RS125 | JPN Ret |
AUS 16 |
USA |
SPA DNS |
ITA Ret |
GER 10 |
AUT Ret |
EUR 14 |
NED 11 |
FRA 7 |
GBR 8 |
RSM 8 |
CZE Ret |
VDM |
MAL 2 |
55 | 13位 | 0 | |
テンプレート:MGP | 125cc | F.C.C./T.S. Venus-ホンダ | RS125 | JPN Ret |
AUS Ret |
MAL 6 |
SPA 4 |
ITA Ret |
EUR |
GER Ret |
NED 6 |
HUN 7 |
FRA 4 |
GBR 6 |
BRA 14 |
RSA Ret |
42 | 11位 | 0 | |||
テンプレート:MGP | 125cc | F.C.C. Technical Sports-ホンダ | RS125 | AUS 2 |
MAL 2 |
JPN 2 |
SPA 1 |
AUT 2 |
GER 2 |
NED 2 |
EUR Ret |
SMR 2 |
GBR 2 |
CZE 1 |
ITA 2 |
USA 2 |
FIM 3 |
266 | 2位 | 2 | ||
テンプレート:MGP | 125cc | Semprucci-アプリリア | RS125R | AUS 1 |
MAL 2 |
JPN 2 |
SPA 1 |
AUT 5 |
GER 2 |
NED 4 |
ITA 2 |
FRA 3 |
GBR 4 |
CZE 1 |
USA Ret |
ARG 9 |
EUR 7 |
224 | 1位 | 3 | ||
テンプレート:MGP | 125cc | Team Krona-アプリリア | RS125R | AUS 2 |
MAL 10 |
JPN 3 |
SPA 6 |
GER Ret |
ITA 5 |
NED 4 |
FRA 12 |
GBR 1 |
CZE 1 |
BRA Ret |
ARG Ret |
EUR 4 |
140 | 2位 | 2 | |||
テンプレート:MGP | 125cc | アプリリア | RS125R | MAL 10 |
INA 14 |
JPN Ret |
SPA 5 |
ITA 3 |
FRA 8 |
NED 7 |
GER 11 |
GBR 5 |
AUT 9 |
CZE 4 |
IMO 12 |
CAT 3 |
BRA 11 |
AUS Ret |
113 | 8位 | 0 | |
テンプレート:MGP | 125cc | アプリリア | RS125R | MAL 2 |
JPN 2 |
SPA 7 |
ITA 6 |
AUT 6 |
FRA Ret |
NED 3 |
IMO 3 |
GER Ret |
BRA 5 |
GBR Ret |
CZE 9 |
CAT 2 |
INA 2 |
AUS 2 |
179 | 4位 | 0 | |
テンプレート:MGP | 125cc | アプリリア | RS125R | JPN 1 |
MAL 6 |
SPA 1 |
ITA 4 |
FRA 1 |
MAD 4 |
NED 2 |
GBR 1 |
GER 7 |
CZE 2 |
IMO 4 |
CAT 9 |
AUS 4 |
ARG 5 |
229 | 1位 | 4 | ||
テンプレート:MGP | 125cc | ホンダ | RS125 | MAL 10 |
JPN 8 |
SPA 13 |
FRA 9 |
ITA 8 |
CAT 7 |
NED 10 |
GBR 13 |
GER 19 |
CZE Ret |
IMO Ret |
VAL 12 |
AUS 13 |
RSA 15 |
BRA 17 |
ARG Ret |
56 | 14位 | 0 |
人物
その戦歴に報われない苦労人。1994年世界チャンピオンになりながら、オフの過ごし方を聞かれた雑誌のインタビューに「ユンボのバイトします」と答えている。アプリリアからのサポートも悪く、劣化した部品を組み込んで予選に臨み、結果壊れてしまったために他のチームに融通をお願いに行くなど、おおよそ勝利を望めない環境で得た1998年のチャンピオンは非凡な才能によるものだった。
イタリア語で「転倒」を意味する言葉が「カズト」に似ているので、イタリア人のサーキットドクターからは「転倒しないように験を担いで登録名を変えれば?」と提言されたことがある。
WGPでの初優勝
フル参戦3年目となった1993年シーズンは、開幕戦から3戦連続2位と好調ではあったが、常にダーク・ラウディスの後塵を拝し、初優勝にはなかなか手が届かない状態だった。そのような状況で迎えた第4戦スペインGPにおいて、共にWGP参戦を開始して以来の親友であり、同年から250ccクラスに移っていた若井が、予選中の事故で死去。大きなショックを受けた坂田は、上田共々決勝の辞退も考えたが、グランプリドクターに説得され「若井の為に」と出走を決意することとなった。
決勝ではホールショットこそ辻村猛に譲ったものの、1周目のうちに首位を奪取した後は誰にもトップを譲らず、終盤のラルフ・ウォルドマンの追い上げを0.602秒差で振り切り、WGP初優勝を挙げた。初優勝を果たした坂田ではあったが、ゴール後のパドック・表彰台・優勝インタビューを通し喜びの表情は一切見られず、ひたすら号泣し続ける様子がTVに映し出されることとなった。また優勝コメントにおいては、「若井の為にと気力だけで頑張った」との発言も残している。