原貢

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テンプレート:Infobox baseball player 原 貢(はら みつぐ、1935年3月30日 - 2014年5月29日[1])は、アマチュア野球指導者。佐賀県鳥栖市出身。

息子は元プロ野球選手で現読売ジャイアンツ監督の原辰徳。孫(娘の子)は読売ジャイアンツ投手の菅野智之

来歴・人物

鳥栖工業高等学校卒業、立命館大学中退。ノンプロの東洋高圧大牟田(現・三井化学)を経て、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任。無名校を初出場にして高校野球全国大会優勝へと導き、三池工フィーバーを起こす。

その後、三池工での戦いぶりと原の生き様に感銘を受けた東海大学の創設者・総長松前重義の招きで東海大学付属相模高等学校野球部監督に就任。東海大相模の名を全国に轟かせ、神奈川高校野球界の勢力図を塗り替える。1974年(昭和49年)には長男・辰徳が東海大相模に入学し、「親子鷹」としても話題となる。辰徳には野球部内では親子の関係を一切断ち切るなど厳しい条件を押し付けた。練習では何度も辰徳に対して鉄拳を浴びせ、ほかの選手の襟を正すための生け贄にした。

1977年(昭和52年)、辰徳の進学と共に東海大学硬式野球部監督に就任。首都大学リーグ7連覇を達成。1981年(昭和56年)に辰徳が巨人入りしたのを機に東海大相模監督に復帰した。1984年(昭和59年)から東海大学系列校野球部総監督。1990年(平成2年)春から東海大監督に復帰、6度のリーグ優勝に導き、1996年(平成8年)に勇退した[2]。以降は再び東海大学系列校野球部総監督だった。

守備に重点を置いた厳しい指導を行う一方、1970年代の指導者にしては珍しく練習中の水分補給を認めたり[3]塩を舐めさせたりするなど[4]、進歩的な考えも併せ持っていた。また野球部の練習休みで辰徳が自宅に帰ってきた際には、夕食で辰徳におかずを勧めるなど、温厚な父親の顔を見せていた。辰徳曰く「悪い言葉で言えば二重人格、よく言えば切り替えの名人」[5]

孫の菅野智之が、2011年のドラフトで巨人の単独指名を受けるとみられていたが、日本ハムが強行指名し交渉権を獲得したことについて「日本ハムからあいさつが一言もなかった。これは人権蹂躙」「あいさつもなしに指名するなんて“だまし討ち”」と憤った[6][7]

2014年5月4日心筋梗塞のため、神奈川県内の病院に入院した[8]。同年5月29日午後10時40分に心不全で死去したことが、同月31日に発表された[1]。没後に生前の功績を讃えられ、東海大学:松前達郎総長から『東海大学野球部名誉総監督』の称号が追贈された[9]

甲子園での成績

  • 三池工:出場1回・5勝0敗・優勝1回(春:出場なし/夏:出場1回・5勝0敗・優勝1回)
  • 東海大相模:出場8回・12勝7敗・優勝1回・準優勝1回(春:出場2回・3勝2敗・準優勝1回/夏:出場6回・9勝5敗・優勝1回)
  • 通算:出場9回・17勝7敗・優勝2回・準優勝1回

脚注

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参考文献

  • 『炭鉱町に咲いた原貢野球-三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』(澤宮優著・現代書館
  • 『甲子園優勝校物語』ベースボールマガジン社ISBN 58361408X
  • 『甲子園の星たち』ベースボールマガジン社ISBN 83610696
  • 1.0 1.1 テンプレート:Cite web
  • 6月1日の日刊スポーツより
  • 原貢さん死去:強烈、球界の「父子鷹」 甲子園2度V 強打の「パワー野球」毎日新聞2014年6月1日配信
  • 朝日新聞社「週刊 甲子園の夏」より、辰徳談。なお原父子について取り上げた『バース・デイ』(TBSテレビ、2014年7月19日放送分)では、貢が監督当時の東海大相模ナインが練習中に水分及び塩分を補給するニュース映像が流された。
  • ベースボール・マガジン社「大学野球 2011春季リーグ戦展望号」より
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  • 原監督の父・貢氏が心筋梗塞で入院 中日戦は川相ヘッドが代行スポーツニッポン2014年5月5日配信
  • 巨人・原監督の父、貢氏の葬儀・告別式が営まれる サンケイスポーツ 2014年6月6日閲覧