千葉胤正

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千葉 胤正(ちば たねまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将千葉氏の第4代当主。第3代当主・千葉常胤の長男。母は秩父重弘の娘。

略歴

通称は千葉新介治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵に際して父と共に頼朝に従って参戦する。養和元年(1181年)4月、胤正は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)[1]

文治5年(1189年)の奥州合戦にも参戦して武功を挙げた。翌年に奥州藤原氏の残党・大河兼任が反乱したときには、この鎮圧に当たって功を挙げた。また、頼朝の上洛にも付き従っている。

生没年は詳しく分かっておらず、通説は建仁3年7月20日に63歳で没したとされている(『千学集抄』『千葉大系図』)。だが、建仁2年7月7日に67歳で没したとする説もある(『本土寺過去帳』)。いずれにしても、建仁元年に没した父の後を追うように死去したものと思われる(なお、『吾妻鏡』によればすぐ下の弟相馬師常元久元年(建仁4年から改元)11月15日に67歳で没している)。家督は子の成胤が継いだ。

脚注

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外部リンク

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  1. 他の10名は、北条義時下河辺行平結城朝光・和田義茂・梶原景季・宇佐美実政・榛谷重朝葛西清重三浦義連・八田知重。主に有力御家人の二世世代であり、将来を担う人材の育成という面もあったと見られる。文治5年(1189年)2月28日、頼朝が彗星を見るために寝所から庭に出た際は、御前を結城朝光と三浦義連、御後を梶原景季と八田知重が警護している。