千葉満胤
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千葉 満胤(ちば みつたね)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。千葉氏の第14代当主。第13代当主・千葉氏胤の子。母は新田義貞の娘。
略歴
正平20年/貞治4年(1365年)9月、父の死によりわずか7歳で家督を継いだ。弘和元年/永徳元年(1381年)、小山義政の乱に際しては、鎌倉公方の足利氏満の命により、下野の小山義政を攻撃した。
応永23年(1416年)8月、上杉禅秀の乱に際しては、子の兼胤・康胤らとともに上杉氏憲(禅秀)に与して鎌倉公方・足利持氏追放に加担した(『鎌倉大草紙』の記録を信じれば、首謀者とされる上杉氏憲・足利満隆の兵力がそれぞれ2千騎・1千騎であったのに対して8千騎を動員したという)。ところが、これに怒った京都の将軍・足利義持の命を受けた今川範政・上杉房方らを中心とする幕府の軍勢が鎌倉に攻めて来る。
応永24年(1417年)1月まで満胤は禅秀と共に懸命に戦ったが、敗れて禅秀は自害し、満胤は降伏した。このとき、一命は助けられている。しかし隠居して政界から退くことを余儀なくされた。
応永32年(1426年)6月8日、68歳で死去し、跡を子の千葉兼胤が継いだ。