別子山村
テンプレート:Infobox 別子山村(べっしやまむら)は、愛媛県宇摩郡にあった村。2003年(平成15年)4月1日に、隣接する新居浜市に編入合併し、単独自治体としての別子山村は消滅した。別子銅山で栄え、一時は人口は1万人を超えたが、採鉱の中心が新居浜側に移った途端人口は激減し、人口300人に満たない山村へと戻った。
村役場は合併後、新居浜市役所別子山支所になっている。旧役場と支所は同一場所であるが、合併に伴い施行された地籍調査により地番は新居浜市別子山字ヲトヂ甲482番地の3に変更された[1]。
地理
北の新居浜市と隔てる赤石山系をはじめとして周囲を千数百メートル級の四国山地の山々に囲まれた山村。(平成の合併が始まる前の時点で)離島を除けば全国で二番目に小規模(人口が少ない)の自治体であった。
銅山川(吉野川の支流のひとつ)の上流域に位置する。新居浜市側と三島側(現・四国中央市)と両方からアクセスできるが四国中央市からの方が道が整備され、両方とも道路は県道の新居浜別子山線の一本のみで、銅山川のV字型渓谷に沿って走る道路の沿線の斜面に僅かに人家や公共施設が点在し平地はほとんど無い。
歴史
- 開村(伝承によるもの、詳細不明)
- 伝説の一つによると、平家の落人の三兄弟がこの地へと落ちのびてきて、住み着いた。三兄弟にちなむ、余慶(よけい)、豊後(ぶんご)、葛籠(つづら)という地名が村内にはある。
- 藩政期
- 銅山により繁栄始まる
- 近代 - 現代 - 世界一の産銅量を誇った同銅山と共に発展、そして衰退、静かな山村に戻る
新居浜市への合併
新居浜市は別子銅山によって基礎が築かれ発展してきたことで、両市村の合併を望む声もあったが、別子山村では長年自主独立の気運が高く、また社会基盤や行政事業が同じ宇摩地域である伊予三島市(現四国中央市)に大きく依存していたため新居浜市との合併は現実的ではなかった。
しかし平成の大合併で宇摩地域も一つの市となる協議が進められるようになったとき、村民の間では「このまま宇摩に付いていいのか」という声が広まった。生活は宇摩であるが産業・歴史的には新居浜市と結びつきが強く、また多くの村民の家族が新居浜市に居住している。宇摩地域で合併協議を進めても、過去に同じ銅山川流域で、東に隣接していた富郷村が伊予三島市に編入された後は山奥の過疎地域として衰退してしまった記憶があるため、同じ道を歩むのではないかという不安があった。
様々な意見はあったものの、村議会で全会一致で新居浜市を合併先とすることが決議され、新居浜市に合併を打診した。新居浜市側で協議を重ねた結果、別子山村受け入れが決議されることとなった。新居浜市と宇摩、共に関係が深い両者間での合併先の選択をした村民の別子山村に対する想いが、どのように新居浜市としての別子山地区に反映されるのかどうかが注目されている。
合併後の旧村役場は新居浜市別子山支所として再スタートし、また長年無医村地区であったが新居浜市医師会による診療所が開設された。また、念願の新居浜市街と結ぶ市営バスも運行を始めた。合併の話が出る以前から進められていた新居浜市と別子山を結ぶ主要地方道・新居浜別子山線の改良工事も県の重要道路事業として位置づけられており、両地域をつなぐ基盤整備が進められている。
観光スポット
- 別子銅山遺跡
- 赤石山系 - 高山植物群
- 別子観光センター(筏津山荘・筏津キャビン)
- 森林公園ゆらぎの森
- 別子ハイツ
- 道の駅マイントピア別子 旧・別子山村区域外ながら、関連のため掲載
その他
- 1年間出生がなかった村
- 政府の「少子化社会白書」平成16年版に別子山村は、2002年のデータをもとに、全国唯一の「1年間赤ちゃんの生まれなかった村」としてリストアップされた。ちなみに同白書によれば、1人しか生まれなかった村は全国9村とある。(いずれも当時)
- 電気を自給自足していた村
- 別子山村では別子山村森林組合(組合長・和田秋廣(=村長)、組合員約100)が村内全域に電気を供給していた。水力発電所によるクリーンエネルギーで、世帯が極めて少ないとはいえ、全国でも珍しい取組であった。しかしながら、編入合併による閉村とともに同組合も解散し、新居浜にある住友グループの電力会社である住友共同電力(本社・新居浜市)に移管した。
- 黒字体質は保っていたものの、水力発電所の設置は1957年と古く、設備の更新に億単位の資金が必要と見込まれたが、人口が少ないうえ、「村」の消滅で資金面でも後ろ盾がなくなったための処置である。なお、組合では村内唯一のガソリンスタンドも経営していたがこちらは、伊予三島市(現:四国中央市)の業者に譲渡した。