公証人役場事務長逮捕監禁致死事件
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件(こうしょうにんやくばじむちょうたいほかんきんちしじけん)は、オウム真理教が1995年(平成7年)、当時目黒公証役場事務長だった男性(68歳)を逮捕(拉致)・監禁し、殺害・死体遺棄した事件である。一連のオウム真理教事件のひとつ。「仮谷清志さん拉致事件」とも呼ばれる[1]。
背景
被害者となった職員の妹は、1993年(平成5年)10月頃にオウム真理教に入信し、これまでに数千万円を教団に布施していた。ところが教団は、被害者の妹の所有物となっている「目黒公証役場」の土地・建物(当時の時価で2億7千万円)も布施するように強要したため、オウムから逃げ出し、目黒公証役場事務長である被害者に匿まわれることになった。
事件
1995年(平成7年)2月28日午後4時半ごろ、東京都品川区上大崎の路上で、目黒公証役場から出てきたこの職員を信徒らがワゴン車に連れ込んで拉致、山梨県西八代郡上九一色村(現:南都留郡富士河口湖町)のサティアンに連れ込んだ。
教団は、麻酔薬のチオペンタールを投与することで、被害者の妹の居所を自白させようとしたが果たせなかった。そこで麻原彰晃は、拉致実行犯の一人に被害者を絞殺させることとし、「(被害者を)ポアさせることによって(実行者)に徳を積ませる」と称し、東京からサティアンに呼び戻すことになった。その間、被害者は麻酔薬を過剰に投与されたため、3月1日午前中に死亡した。午後になって麻原指名の実行者が到着し、既に死亡したことを知らせずに被害者の首を絞めさせた。遺体は中川智正ら数名がマイクロウェーブを応用した焼却炉で焼却し、骨や灰は細かく砕いて本栖湖に流して死体遺棄をし、証拠を隠滅した。麻原は中川らに報酬として、おはぎとオレンジジュースを渡した。
その後
麻原は被害者死亡の報を聞き、「被害者は前世で俺の弟子だった。前世でポアしてくれと請願されて、約束を果たした。」と嘯いたという。
3月4日にこの事件が明るみに出た。教団は名誉毀損で最初に報道した朝日新聞社を訴えたが、他のマスコミも朝日に追随し大々的に報道した。3月18日には「オウム真理教から仮谷清志さんを救出する会」主催による1万人集会が開かれている。
警察は拉致される瞬間を複数の民間人が目撃していたことを受けて捜査を開始し、拉致に使用したレンタカーの書類からオウム信者の松本剛の指紋が採取され[2]、さらにレンタカーから松本の指紋と被害者の指紋と血痕が確認されたことにより、警察がオウム真理教が凶悪事件に関与していたことを確定的に認識する初の事件となった。3月22日に警視庁は拉致監禁の容疑で教団本部に強制捜査に入った。これは、地下鉄サリン事件の2日後だった。
目黒公証役場事務長の死亡については、誘拐罪と殺人罪ではなく逮捕監禁致死罪と死体損壊罪で立件されている。
中川智正死刑囚の最高裁判決(2011年11月18日)の約1か月前(10月21日)に、被害者の長男(当時51歳)は 「父の死因が、監禁のために投与された薬物の影響なのか、それとも殺害の意図をもって点滴に投与された薬物の影響なのか、その真相を知りたくて、中川死刑囚(当時は被告人)に面会した。 中川は点滴中に被害者が死亡したことは認めたが、『積極的に何かしたわけではない。今はこれしかもうし上げられない』と殺害を否定したという。被害者の長男は「父は殺されたと思っていた。中川の話には含みもあり信じ切れない。これからも真実を追及したい」と話した。
平田の行方は長い間不明であったが、2011年(平成23年)12月31日の午後11時50分頃に警視庁丸の内警察署に平田信と名乗る男が出頭。指紋が一致したため平田本人と確認され、翌2012年(平成24年)1月1日未明に逮捕された[3][4]。
オウム真理教犯罪被害者等を救済するための給付金の支給に関する法律における給付金支給対象事件に指定されている。
参考文献
- 『オウム法廷―グルのしもべたち〈上〉』(朝日新聞社、1998年)
脚注
- ↑ 仮谷清志さん拉致事件とは - 読売新聞サイト,用語解説(2012年1月13日時点のアーカイブ)
- ↑ 松本は過去に信者集めを目的に尾崎豊の偽装後援会のビラを電柱に貼ったことによる東京都屋外広告物条例違反での逮捕歴があり、その時の指紋採取記録と一致した。
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