伊東義益
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伊東 義益(いとう よします、天文15年(1546年) - 永禄12年7月11日(1569年8月23日)[1])は日向伊東氏十一代当主。伊東義祐の次男。虎房丸・六郎[2]。従四位下、左京大夫[2]。
略歴
庶子であったが兄観虎丸が早世したため後継者に定められ、永禄3年(1560年)に家督相続し[2]、都於郡城主となって義祐の後見を受けて伊東家の全盛期を築いた[2]。智勇に優れた人物で、その上温厚な性格であったため父以上に家臣団、民衆から慕われたという。家督相続後も、当主として引き続き都於郡にあり、佐土原の義祐との二頭政治が行われた。
永禄12年(1569年)、都於郡の岩崎稲荷に参籠中、病にかかって死去[2]。都於郡城中のすべての者が剃髪して菩提を弔うという異例の葬儀が行われた。
妻は一条房基の娘で、薩摩藩側の史料『本藩人物誌』によれば伊東大炊介の計らいで結婚するという。この妻との間に伊東義賢・祐勝の2人と、さらに娘1人(伊東祐兵正室、阿虎の方)を儲けた。
義益の側室
義益には正室一条氏の他に側室がいたという話も伝わるが、伊東氏の系図等には記載がない。ただし『本藩人物誌』には、野村松綱の妹である福園は義益の結婚前からの側室であり、一条氏との結婚後に野村家に返される。しかし一条房基の娘の命により殺害され、野村氏が「伊東崩れ」に加担する遠因になったと書かれている。『鹿児島県旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集三』の『野村氏系図』でも福園が義益の側室とは書かれていないものの、義益夫人の命で殺害されたことが記載されている。