一条房基
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テンプレート:基礎情報 公家 一条 房基(いちじょう ふさもと)は、日本の戦国時代の公家・大名。土佐国司。土佐一条氏の四代目当主。一条房冬の嫡男。
生涯
享禄元年(1528年)に従五位下に叙せられ、享禄5年(1532年)には右近衛中将、天文9年(1540年)には従三位にまでなり、阿波権守を兼官した。天文10年(1541年)、父・房冬の死後、家督を継いだ。智勇に優れた人物で[1]、天文11年(1542年)に謀反した津野基高(つの もとたか)を討ち、天文15年(1546年)には津野氏を降伏させ、同じ頃に大平氏の本拠地の蓮池城を奪い、高岡郡一帯が一条氏の支配下に入った[2]。また、伊予国南部への進出を図るなど一条氏の勢威を拡大した。
ところが、天文18年(1549年)、突如として自殺した。享年28。跡を嫡男の兼定が継いだ。理由は狂気のためであるといわれているが、詳細は不明。戦国大名のような攻撃的な振る舞いを京の一条宗家に疎まれたための暗殺という説もあるが、憶測の域を出ない。墓は光寿寺にあったが、同寺の廃寺後、墓の所在が不明となった。後に供養墓が再建されている。