仙台四郎

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仙台四郎の人形

仙台 四郎(せんだい しろう、1855年頃 - 1902年頃)は、江戸時代末から明治時代にかけて、現在の宮城県仙台市に実在した人物。旧字体で「仙臺四郎」とも書く。本名は芳賀 四郎

知的障害でほとんど話すことができなかったが、四郎が訪れる店は繁盛するとして存命中から各地でもてなされた。没後、商売繁盛のご利益がある福の神としてその写真が飾られるようになった。

来歴

仙台藩の城下町仙台に、鉄砲鍛冶職人の家の4男として生まれたとされる。火の見櫓のそばに生家があったため、「櫓下四郎」とも呼ばれた。彼の知的障がいには2つの説があって、生まれつきだという説と、そうではなく、7歳の時花火見物中に誤って広瀬川に転落して溺れて意識不明となり、それが元で知的障がいとなったという説がある。 言葉は「バアヤン」などとしか話せなかったそうである。

その後、四郎は気ままに市中を歩き回るようになった。行く先々で食べ物や金品をもらったりしていたが、人に危害を及ぼすことはなく愛嬌のある風貌をしていたので、おおむね誰からも好かれた。子供が好きで、いつも機嫌よく笑っていたという。「四郎馬鹿(シロバカ)」などと陰口を叩かれることもあったが、不思議と彼が立ち寄る店は繁盛し人が集まるようになったため、「福の神だ」などと呼ばれてどこでも無料でもてなされたとされるが、実際には家人が後に支払いに回っていたこともあった。店にしてみれば、どんなに高額な飲食でも、必ず後で代金を支払ってもらえる上客と解釈できる存在であったという側面もある。四郎は素直な性質であったが、気に入らない店には誘われても決して行かなかったという。

やはり無料で鉄道を利用し、宮城県内の白石や、福島県福島白河、さらには山形県山形まで足を伸ばしていたらしい。

四郎は1902年明治35年)頃に須賀川にて47歳で死んだとされるが[1]、諸説ありはっきりしたことはわかっていない。徘徊中にそのまま姿を消したという説もある。釜山港漫遊中との新聞記事が掲載されたことがあるが、これも事実かどうかはわからない[2]

仙台四郎

明治時代には、千葉一が30歳頃の四郎を撮影した写真焼き増しされて販売されていた。大正に入る頃に、仙台市内の千葉写真館が「明治福の神(仙臺四郎君)[3]」と銘打ってこの写真を絵葉書に印刷し売り出した。このときから「仙台四郎」と呼ばれるようになった。

現在残っている写真は上記の一種類だけである。この写真に写る四郎は、縞模様和服に懐手をして笑って居る姿をしており、言い伝え通りに膝を丸出しにしているところが写っているなど、四郎の人と為りをよく捉えたものと言える。

この写真をオリジナルとして、肖像画家による作品が2つと、鉛筆画が4つあり、それぞれらの複製の段階で細部の違いもできたりしたため、さらに幾つかの版の存在を確認できる[4]着物がはだけていないように見える物から、中には膝の奥に男根がそのまま写っているものまで有り、幅広い職種の如何を問わず、彼が福の神として厚く慕われて来た何よりの証拠ともなっている。

流行り神

四郎の人気には盛衰がある(数回のブームがある)。

仙台市内の飲食店では、神棚、レジ脇などに、仙台四郎の写真や置物を見ることができる。土産屋などでは、様々な四郎人形がおいてある。

なお、仙台の流行り神としては、他に定義如来仙台幸子がある。

仙台四郎を題材とした作品

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

  • 大沢忍『不思議な福の神「仙台四郎」の解明 -その実在と世界の分析』、近代文藝社、1994年
  • 仙台市民図書館・種部金蔵・編『要説宮城の郷土誌』、宝文堂、1983年
  • 三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』、宝文堂、1972年
  • 『明治の福の神仙台四郎+平成の幸運の女神仙台幸子』(壱号)、2005年

関連項目

外部リンク

  • 仙台市歴史民俗資料館所蔵資料による
  • NHK取材「仙台四郎」
  • 福の神 ~ 仙台四郎(ノビシステムズコーポレーション)
  • 粟野邦夫『福の神仙台四郎のなぞ』
  • せんだい旅日和 スタッフだより
  • 仙台四郎物語~福の神になった男(明治座)