カンボジア人民党

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テンプレート:政党 カンボジア人民党(カンボジアじんみんとう、クメール語:Kanakpak Pracheachon Kâmpuchéa, KPK、英語:Cambodian People's Party, CPP)は、カンボジア政党2006年現在、上院下院双方の過半数を占める与党である。2011年現在、党名誉議長はヘン・サムリン、議長がチア・シム、副議長がフン・センである。

歴史

公式党史においては、1951年9月にインドシナ共産党から分かれたクメール人民革命党の結党をもって、党の創立とされている。しかし、1960年9月の第2回党大会以降、ポル・ポトイエン・サリらのパリ留学組が台頭し、後にカンプチア共産党クメール・ルージュ)となる。

1975年の「民主カンプチア」(クメール・ルージュ政権)の樹立後は、その極端な共産主義政策により、多くの離反者を招き、彼らはベトナムに逃れた。

ベトナムとの間の国境紛争が激化していた1978年12月2日、ベトナム軍占領下のカンボジア東部(ベトナム国内説もあり)で、ヘン・サムリンフン・センら元クメール・ルージュ下級幹部と、ペン・ソバンらのベトナム長期亡命者が合同し、カンプチア救国民族統一戦線を結成して反乱を起こした。

同年12月25日にはベトナム軍がカンボジア領内に全面侵攻、翌1979年1月7日首都プノンペンが陥落して、クメール・ルージュはタイ国境地域に退却した。カンプチア救国民族統一戦線はカンプチア人民共和国の成立を宣言、カンプチア人民革命党を「再建」し、ペン・ソバンが第一書記(書記長)に就任した。

1981年末、ペン・ソバンが失脚すると、以後はヘン・サムリンが国家元首と党書記長を兼ねた。その後の内戦の過程で1982年にはクメール・ルージュがシアヌーク派、ソン・サン派の三派で連合し「民主カンプチア連合政府」を樹立、ベトナム軍に支援された人民革命党のカンプチア人民共和国に対抗した。

1989年のベトナム軍撤兵後、和平機運が高まり、国号をカンボジア国に改称。さらに、1991年10月の臨時党大会においてカンボジア人民党に改称し、多党制を採用するとともに、マルクス・レーニン主義を放棄した。

1990年のカンボジア和平東京会議をへて、1991年のカンボジア和平パリ国際会議で和平合意が成立、4派はカンボジア最高国民評議会(SNC)を結成した。1992年に設立された国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の監視下で1993年4月自由選挙による総選挙が行なわれた。選挙結果は120議席のうちシハヌークの息子ラナリットフンシンペック(正式名称:独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線)が58議席、カンボジア人民党が51議席、ソン・サンの仏教自由民主党が10議席、その他1議席となった。これにより、カンボジア人民党はフンシンペックと連立、第一首相にラナリットが、第二首相にフン・センが就任することで妥協が成立し、立憲君主制をとる新憲法を採択、シアヌークが国王に即位した。

しかし依然として強大な影響力と支配網を維持するカンボジア人民党はその後フンシンペックと微妙な緊張関係に立ち、1997年にはプノンペンでの武力衝突に発展したが、1998年7月の総選挙で第1党となり、フン・センは首相に就任した。その後もフンシンペックとの連立政権を維持してはいるが、その後選挙ごとに議席数を増やしており、2006年にはヘン・サムリンがラナリットの後任として下院議長に就任するなど、党勢は拡大の方向にある。

選挙における党勢推移

国民議会選挙(得票率)
1993年:51議席(38.23%)
1998年:64議席(41.4%)
2003年:73議席(47.35%)
2008年:90議席(58.11%)

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