井上八千代
目次
初世家元 初代井上八千代
本名・井上サト(明和4年(1767年) − 安政元年12月5日(1855年1月22日))
京都の出身。宮廷文化を基盤に創始。天明時代から近衛家に仕え、曲舞や白拍子舞を学ぶ。1797年に近衛家を退いた際に八千代の芸名と近衛菱紋を贈られ井上流を創始。
二世家元 二代目井上八千代
本名・井上アヤ(明和7年(1770年) - 慶応4年3月1日(1868年3月24日))
京都の出身。初代の姪(兄の娘)で後に養子。才女として知られ、当時花街の師匠として風靡した篠塚流に対抗するには、もはや風流舞ではおぼつかぬと見て、金剛流の能舞の型や人形浄瑠璃の人形の型、さらに歌舞伎からも取材して、新しい舞「本行舞」を創始した。
三世家元 三代目井上八千代
本名・片山春子(天保9年2月1日(1838年2月24日) - 昭和13年(1938年)9月7日、旧姓:吉住)
大坂住吉の社家吉住彦兵衛の次女。初世家元・サト、二世家元・アヤに師事し井上春を許される。夫は能楽シテ方観世流・六世片山九郎右衛門(晋三)。
明治5年(1872年)、35歳のとき、京都初の博覧会が催され、万亭の杉浦治郎右衛門と二人で余興として「都をどり」を企画。振付ならびに指導を担当、これまで座敷舞であった京舞を舞台にのせ、また祇園町と井上流の関係を深めて流派を興隆にみちびいた。四代目八千代、松本佐多はじめ多くの弟子をそだてている。なお「井上八千代」を名乗るのは96歳の時で、それまでは片山春子で通していた[1]。娘・光子の婿が七世片山九郎右衛門(観世元義)で、孫に観世左近(元滋)と片山博通がいる。博通の妻が四代目八千代である。北條秀司の戯曲『京舞』は、三代目八千代と四代目八千代を主人公としている。
昭和12年、百寿の祝賀会で創作舞を披露。最晩年まで舞にかける情熱は衰えを見せなかった。翌昭和13年の春、101歳となっても「都をどり」の采配を振るい、この年天寿を全うしている[2]。
四世家元 四代目井上八千代
本名・片山愛子(明治38年(1905年)5月14日 - 平成16年(2004年)3月19日)
三代目井上八千代の内弟子。夫は三代目の孫である片山博通(八世片山九郎右衛門)。子に九世片山九郎右衛門(博太郎)、片山慶次郎、杉浦元三郎(いずれも能楽シテ方観世流)。人間国宝認定。芸術院会員。日本芸術院賞、芸術祭賞等を受賞。文化勲章受章。後年隠居して初代井上愛子を名乗る。
昭和17年の日活映画『宮本武蔵 一乗寺決闘』で、稲垣浩監督は吉野太夫の舞を四代目井上八千代に指導してもらった。夫の片山博通にも昭和13年に『出世太閤記』で織田信長の幸若舞を指導してもらっている[3]。
代表作は『長刀八島』、『海士』(あま)、『鉄輪』(かなわ)、『信乃』ほか。
経歴
- 1905年、京都に生まれる
- 1908年(3歳)、三世八千代に入門
- 1919年(14歳)、名取。井上愛子を名乗る
- 1923年、八坂女紅場学園舞踊科教師になる
- 1931年、三世家元の孫、観世流能楽師・片山博通(八世片山九郎右衛門)と結婚
- 1947年、四世家元、四代目井上八千代を襲名
- 1952年、日本芸術院賞 受賞
- 1955年、人間国宝に認定
- 1957年、日本芸術院会員に選ばれる
- 1976年、勲三等宝冠章
- 1990年、文化勲章
- 2000年、孫の井上三千子に家元の座と八千代の名跡を譲り、「井上愛子」に戻る
- 2004年、満98歳で老衰により死去
五世家元 五代目井上八千代
本名・観世三千子(1956年11月28日 - 、旧姓:片山)
1956年、四代目八千代の片山愛子を祖母、片山幽雪(九世片山九郎右衛門、能楽シテ方観世流)を父に京都に生まれる。夫は九世観世銕之丞(能楽シテ方観世流)。子に井上安寿子(観世安寿子)、観世淳夫。日本藝術院会員。
公益社団法人・日本舞踊協会常任理事。
経歴
- 1956年、京都に生まれる
- 1959年(2歳)、舞の稽古を始める
- 1970年(14歳)、名取
- 1975年、私立ノートルダム女学院高校卒業。学校法人「八坂女紅場学園」(祇園女子技芸学校)の舞踊科教師になる
- 1999年、日本芸術院賞受賞
- 2000年、五世家元として「五代目井上八千代」を襲名
- 2013年、紫綬褒章受章、日本藝術院会員に選ばれる。
脚注
参考文献
- 遠藤保子 『京舞井上流家元・三世井上八千代 祇園の女風土記』 リブロポート[シリーズ民間日本学者]、1993年
- 片山慶次郎 『井上八千代芸話』 河原書店、1967年