九フン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
九份から転送)
移動先: 案内検索

テンプレート:Ambox-mini

ファイル:Chiufen001.jpg
九份のレトロな街並み(豎崎路)
ファイル:Jiufen 2012.JPG
九份から見た海の眺め
ファイル:Hijyoujyoushi.jpg
悲情城市の垂れ幕

九份(きゅうふん、ジォウフェン)は、台湾北部の港町基隆市の近郊、新北市瑞芳区に位置する山あいの町である。

名称の由来

九份という地名の由来はいくつかあり、一般的に台湾語で「開墾した土地の持分を9人で分けたもの」の意。または、清朝初期に9世帯しかなく物を買うときにいつも「9つ分」と言っていたことから、ともいう。

台湾語ではカウフン(kau2-hun7)、あるいはカウフナ(kau2-hun7-a2)、中国語(台湾華語)ではジォウフェン(テンプレート:注音テンプレート:ピン音)という。

歴史

その昔、九份は台湾の一寒村に過ぎなかったが、19世紀末にの採掘が開始されたことに伴い徐々に町が発展し、日本統治時代藤田組によりその最盛期を迎えた。九份の街並みは、日本統治時代の面影を色濃くとどめており、路地や石段は当時に造られたものであり、酒家(料理店)などの建物が多数残されている。しかし、第二次世界大戦後に金の採掘量が減り、1971年に金鉱が閉山されてから町は急速に衰退し、一時人々から忘れ去られた存在となっていた。

1989年、それまでタブー視されてきた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾で空前のヒットとなった映画『悲情城市(A City of Sadness)』(侯孝賢監督)のロケ地となったことにより、九份は再び脚光を浴びるようになる。映画を通じて、時間が止まったようなノスタルジックな風景に魅せられた若者を中心に多くの人々が九份を訪れ、メディアにも取り上げられるなど、台湾では1990年代初頭に九份ブームが起こった。

ブームを受け、町おこしとして観光化に取り組んだ結果、現在では街路(基山街など)に「悲情城市」の名前を付けたレトロ調で洒落た喫茶店や茶藝館(ちゃげいかん)、みやげ物屋などが建ち並び、週末には台北などから訪れる多くの人々で賑わっている。

また、世界の旅行ガイドブック(台北付近)にも多数紹介されており、今では台湾を代表する観光地のひとつとして定着している。

宮崎駿のアニメ『千と千尋の神隠し』のモデルになったというもあり、日本の観光客への知名度が高まったが公式に否定されている。[1][2][3][4]

2008年11月末、経済部の中小企業処は「(民國)97年度革新科学技術の応用群聚計画」を実施し、九份地区に群聚のウェブサイト、無料の無線Wi-Fi(利用範囲:基山街と豎崎路の人気があるスポット、約90%含む)、ネット商店、リアルタイム映像システム(九份風景と人潮及び天気が見られる)、QRCodeシステム(商店と商品の紹介)などの関連技術を導入し、古い町の九份でも現代的なデジタル技術を活用出来るようになっている。

九份にはホテル(中国語で飯店、旅社)がなく、宿泊施設は主に民宿である。

沿革

  • 1903年11月1日 - 街庄長管轄区域改正より九份庄と金瓜石庄が合併し九份庄を新設。基隆庁基隆堡第三区所属。
  • 1920年10月1日 - 地方制度改正より大字九分となる。台北州基隆郡瑞芳庄所属。
  • 1933年12月16日- 大字金瓜石に改称。

風を聴く〜台湾・九份物語〜

2007年秋に林雅行監督・脚本のドキュメンタリー映画『風を聴く〜台湾・九份物語〜』が公開された。

同作のナレーションを担当する一青妙と挿入歌として楽曲「大家(ダージャー)」を提供とした歌手一青窈の父親は九份の元金鉱主であり、一青姉妹にとって九份は亡き父の故郷に当たる。「大家」は亡くなった父親への想いを歌った曲である。

ギャラリー

交通

鉄道

  • 台鉄宜蘭線瑞芳駅から台北 - 金瓜石、基隆 - 金瓜石、瑞芳 - 金瓜石(番号825、快速公車(直達)、休日運転)を通るバスで約15分。「舊道口」バス停は九份で一番賑やかな老街・基山街に近い。「九份」バス停は豎崎路の入口で、近くに九份派出所がある。
  • 台鉄縦貫線基隆駅から基隆 - 金瓜石を通るバスで九份へ約1時間。

高速バス

関連項目

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Coord
  1. 九份が実際にモデルとなったことを示す公式資料はなく、宮崎駿本人もモデル地であることを否定している。
  2. 【FOCUS新聞】TVBS專訪宮崎駿 72歲不老頑童 (3分頃より)
  3. スタジオジブリ公式サイト「作品の舞台はどこですか?」
  4. いつものジブリ日誌 2003年1月09日