中島 (愛媛県)
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テンプレート:Infobox 中島(なかじま)とは、忽那諸島の中で一番大きい島嶼。釣島海峡を隔てて、松山港の沖合い約10kmに位置する。トライアスロンの島として知られる。
国土地理院による正式名称は中島(なかしま)。ただし、島としての中島と旧中島町域との意味で区別するために、中島本島(なかじまほんとう)、または本島(ほんとう)と呼ばれることが多い。
目次
自然
- 島のほとんどが瀬戸内海国立公園に属するなど、風光明媚な島である。
- 島の大半は山であり、山頂近くまで果樹園(みかん畑)として利用されている。
山
- 大里山
- 泰ノ山(たいのやま)
地理
歴史
- 骨奈諸島を開拓した始祖は藤原親賢である。
- 奈良時代には、法隆寺の寺領(荘園)となり骨奈嶋の名が記されている。
- 平安期には牛馬牧がおかれ、「忽那嶋」と記されている。
- 豪族忽那氏の本拠となり、瀬戸内海西部に勢力を伸ばしていたが、豊臣秀吉の天下統一により力を削がれ、衰退していった。
行政
経済
- 近代、商品作物の栽培が試みられ、ショウガ、除虫菊、たまねぎなど、主力作物は移り変わったが、今日では、柑橘類の栽培が主たる産業である。柑橘類で本島で栽培できない品種はないともいわれる。しかしながら、台風による塩害により、立ち枯れが多数発生し、また改植の意欲も盛り上がらず、近年は芳しくない。
- かつてはみかんのブランド名も丸中、マルの中に「中」の字として通っていたが、農業協同組合の合併により、えひめ中央農業協同組合と一体化し、丸中のブランドはなくなり、販路開拓にも支障があるとの声もある。また、台風による塩害を受け、改植が必要な園地が多いが、手元資金がある程度必要で、柑橘類の性質上、商品になる実をつけるまでに何年か要するが、その間のつなぎ資金の必要性など、困難は多く、再出発もなかなかままならない状況にある。
- 製造業としては、造船所が大内造船所と岡島造船所[1]の2社、その他、鉄工所や縫製業等が若干。
- 瀬戸内海のメイン航路に接している関係で、規模は大きくはないが、船主も何軒かある。
- かつて海運等で財をなした人々は、旅客航路で接している旧・松山市の三津浜地区で不動産購入等に投資しているなど、蓄積がある。
社会
- 集落 島全体が一つの山の形をしており、島の周囲に集落は点在している。島の中心集落は島の東部にある大浦であり、旧町役場(現在は支所)、中学校、高等学校(分校)、農業協同組合の選果場もあり、小規模ながら商店街や金融機関の店舗もある。東回り航路の終着点であり、交通の中心ともなっている。このため、中島本島のみならず忽那諸島全体の中心でもある。
- 商店 大浦に小規模ながら商店街を形成している。
- 医療 大浦に病院がある。救急患者は松山市街への搬送を強いられる。
学校
島内には愛媛県立松山北高等学校の中島分校1校と、その他小中学校とがある。
このうち、松山市立中島東小学校と松山市立中島南小学校及び松山市立天谷(あまや)小学校は児童数減少により、2009年3月末を以って閉校となり、4月から松山市立中島小学校として統合された。
交通
島外との交通
中島汽船による、松山港(高浜港)との航路が唯一の便である。東線と西線に分けられる。
- 東線寄港地 : 睦月島(むづき)、野忽那島、大浦(終点、中島本島)
- 西線寄港地 : 釣島(つるしま)、神浦(こうのうら、中島本島)、二神島、津和地島、元怒和(もとぬわ、怒和島)、上怒和(怒和島)、西中(にしなか、中島本島)
高速艇、カーフェリーがそれぞれ運航している。
島内交通(バス)
大浦港を拠点に、島を一周する路線と、トンネル経由で島を横断する路線とがある。
観光
名産
- 柑橘類
- 魚貝類 活媛あなご(かつひめあなご)など
観光地
- 姫ヶ浜海水浴場
- 大串キャンプ場
祭り・イベント
- トライアスロン中島大会 毎年8月下旬に開催される。
宿泊施設
- 島内に民宿が数軒
- 中島荘
関連図書
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典38 愛媛県』角川書店、1981年、468-469頁、908-912頁