中宗 (朝鮮王)

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 朝鮮半島の君主 テンプレート:Infobox 中宗(チュンジョン、ちゅうそう)は、李氏朝鮮の第11代国王である(在位:1506年9月2日 - 1544年11月14日)。は恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王、略して中宗恭僖大王。第9代成宗の次男で、第10代燕山君の異母弟。

略史

1494年、6歳で晋城大君(チンソンデグン、しんじょうたいくん)に冊封された。1506年9月2日テンプレート:仮リンク(パク・ウォンジョン、ぼく げんそう)、テンプレート:仮リンク(ソン・ヒアン、せい きがん)、テンプレート:仮リンク(ユ・スンジョン、りゅう じゅんてい)らが宮廷クーデターによって燕山君を廃位、追放し、18歳の晋城大君を擁立した。史上、中宗反正ko、チュンジョンバンジョン、ちゅうそうはんせい)と呼ばれる。中宗はクーデター勢力に擁立された王権の脆弱性を打開するため、燕山君に弾圧された士林派を引き入れ革新を図ったが、土地兼併禁止、均田制実施などを主張する趙光祖ら急進的な士林勢力を押さえることができず、政局は混乱に陥った。

1519年、反正功臣らは過激な士林派に反逆罪をかぶせて粛清を行い、士林派の中心人物であった趙光祖も帰郷を命じられた後、王命により賜薬(死薬)を飲まされて毒死した。これを己卯士禍と言い、この時粛清された学者たちを後世、己卯名賢と呼ぶようになった。1521年、己卯士禍の余波で辛巳誣獄신사무옥)が発生して安処謙などの士林派がまた首切りされた。その後にも政局はもっと混乱し、1524年、権臣テンプレート:仮リンク(キム・アルロ、きん あんろう)の罷職、1525年尹世昌윤세창)の反逆事件、1527年、東宮のテンプレート:仮リンクが相次いで発生した。結局犯人で指目を受けた敬嬪朴氏と彼女の息子李嵋が宮廷を退出させられた後、処刑された。

1531年、その間政界で疏外された金安老がまた復権すると政界はさらに混乱し、金安老に対抗するため中宗の外戚であるテンプレート:仮リンク(ユン・ウォルロ、いん げんろう)と尹元衡兄弟が登場して、政界は勳臣と戚臣の対立が激化して、結局金安老が追放された。このような戚臣の擡頭は、1545年乙巳士禍が発生する原因になった。

また1510年には南部で三浦の乱が起こり、北方からは女真の侵入が相次ぎ、社会不安が絶えなかった。

38年2ヶ月在位した後、1544年11月14日に長男の仁宗に譲位し、翌日56歳で薨去した。墓は「靖陵」とよばれる。

宗室

  • 端敬王后慎氏 - 燕山君の王后慎氏の姪
  • 章敬王后尹氏
  • 文定王后尹氏
    • 明宗 慶原大君 李
    • 懿恵公主 李玉惠(李玉蘭)(1521年~1564年)
    • 孝順公主 李玉蓮(1522年~1538年)
    • 敬顕公主 李玉賢(1530年~1584年)
    • 仁順公主 - 夭折(1542年~1545年)
  • 敬嬪朴氏 - 賜死
    • 福城君 李嵋(1509年~1533年)
    • 恵順翁主 李鐵環(1512年~1583年 )
    • 恵静翁主 李石環(1514年~1580年 )
  • 熙嬪洪氏
    • 錦原君 李岭(1513年~1562年)
    • 鳳城君 (1528年~1547年)
  • 昌嬪安氏(はじめ淑容。宣祖の即位後、昌嬪と追尊。)
    • 永陽君 (1521年~1561年)
    • 德興君 - 第14代国王宣祖の父
    • 静慎翁主 李善環(1526年-1552年)
  • 淑儀洪氏
  • 貴人韓氏 - 安順王后韓氏(睿宗の継妃)の姪
    • 王子
  • 淑儀李氏
    • 徳陽君 李岐(1525年~1581年)
  • 淑儀羅氏 - 出産時に死去
  • 淑媛李氏
    • 貞順翁主 李貞環(1517年-1581年)
    • 孝静翁主 李順環(1522年~1544年)
  • 淑媛金氏
    • 淑静翁主 李守環(1525年~1564年)

中宗が登場する作品

テレビドラマ
アニメーション

脚注

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関連項目


テンプレート:朝鮮国王王妃一覧