三角山 (札幌市)
標高311.3mの、小さな山である。角度によっては三角形に見えることから、「三角山」と付けられた。山頂には、一等三角点がある。三角点の名称は「琴似山」となっている。アイヌ語名は、「ハチャムエプイ」。意味は、「発寒の小山」。
概要
標高わずか300mほどの小さな山だが、散策ルートが何本もあり、各ルートの分岐点には案内板、適所に休憩ポイントが設けられ、山頂近くには四阿もある。ルートには勾配の厳しい箇所もあるが、山麓からのんびり登っても1時間未満で頂上に着くことが可能である。地元の年配者や幼稚園児にも親しまれている人気スポットでもある。近隣地区の小学校校歌にも歌われている。
小別沢方面から、大倉山ジャンプ競技場の頂上を経て三角山に至る縦走コースもある。ジャンプ台リフトを利用して登山を開始することもできる。山麓の登山口には「宮の森入り口」と「山の手入り口」があり、山の手入り口には駐車場とトイレがある。
ふみの日の7月23日には、山頂に臨時の郵便局が開設され、一等三角点の隣には「三角山ポスト」が置かれる。郵便物や山頂で発行される「記念登山証明書」には、三角山や山頂にある一等三角点と三角山に多く生息するキアゲハの入ったデザインの消印が押される。
歴史
一般には、札幌に北海道の首府を建設する際に、開拓使判官の島義勇が円山に登って、札幌市の市街化計画の構想を考えたとされる。しかし、そのとき登った山は三角山だったのではないかという説がある。根拠は円山から眺める景観よりも、三角山からの方が、市街地の景観がより真っ直ぐな碁盤の目状に見えることである。
1908年(明治41年)に、東北帝国大学農科大学(後の北海道大学)の学生にスキーが伝えられると、学生たちは構内から近隣に足を伸ばし、三角山やナマコ山でスキーを行った[1]。農科大学スキー部は、三角山にシルバーシャンツェというジャンプ台(シャンツェ)を作って、ここを札幌におけるスキージャンプの発祥の地とした[2]。三角山には続くアルファーシャンツェ、改造されたシルバーシャンツェ、さらに札幌市が作った札幌シャンツェの三つのジャンプ台が設けられ、1920年代には札幌におけるスキー大会開催の中心地であった[3]。
1931年(昭和5年)に荒井山記念シャンツェ、翌年に大倉シャンツェ(大倉山ジャンプ競技場)が作られると、三角山は大会の中心地ではなくなった。が、一帯のゲレンデ(スキー場)の一つとして広くスキー愛好者に利用された[4]。かつて札幌西高等学校は、この山でスキー学習を行い、北1条通が未整備の時代には、山から学校までノンストップでスキーで戻って来ることができた。
しかし、1950年代に宅地化が進み、また採石場に山体の一部を削られて、三角山のゲレンデは消滅した。
幻となった日本のスキー発祥の地
三角山で初めてスキーを行った人物は、1908年、東北帝国大学農科大学の講師としてスイスから日本に訪れていたハンス・コラーである。このことからスキーが普及し始めた1920年代には、新潟県の高田と札幌が「日本のスキー発祥の地」を争うに至った。最終的には、全日本スキー連盟初代会長(稲田昌植)より、コラーは滑って見せたかも知れないが、レルヒのように技術は教えなかった。日本でスキーが根付いたのは高田であるという意見が出されて定着。三角山が発祥の地となることはなかった[5]。
脚注
参考文献
- 大野精七「札幌・スキーの歩み」、札幌市教育委員会・編『冬のスポーツ』(さっぽろ文庫16)、北海道新聞社、1981年。
- 小原正巳「ノルディックスキー」、札幌市教育委員会・編『冬のスポーツ』(さっぽろ文庫16)、北海道新聞社、1981年。
関連項目
- 三角山 - 同名の山の一覧