丁原
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丁 原(てい げん、? - 189年)は、中国後漢時代末期の政治家。字は建陽。
人物
生涯
元は寒門の出身で、武勇に秀で騎射を得意としたが、人となりは粗略で、官吏としての能力は少なかった。命令を受ければ難を避けず、賊を追う際にはいつも先頭に立った。南県[1]の官吏を経て、并州刺史や騎都尉を務め、この頃に呂布を属僚に取り立てている。
霊帝の死後、宦官誅殺を目論む何進によって董卓・橋瑁らとともに洛陽に召し寄せられた。何進は命令を偽り丁原に孟津へ兵を放たせ、賊徒「黒山伯」の仕業と称し、これをもとに宦官を誅殺するよう何太后に圧力を掛けた。孟津が燃えさかる光景は洛陽城内まで届き、何太后は恐れ慄いたが、宦官を排除するには至らなかった。その後、執金吾となった。
何進と宦官勢力が立て続けに排除されると、丁原もまた董卓の手引きで呂布に殺され、彼の配下の兵は呂布に従って董卓軍に吸収された。また、当初董卓の兵は三千に過ぎなかったが、何進・何苗・丁原の兵を立て続けに吸収したことでその勢力は大いに膨らみ、以後朝廷の実権を掌握することにつながっていった。
物語中の丁原
小説『三国志演義』やそれに題材をとった後世の諸作品では、なぜか丁原を「荊州刺史」としているものが多い。皇帝廃立を謀る董卓に反発する気骨の士として描かれ、軍を率いて城外で対戦している。呂布の武勇によって董卓を苦しめるが、史実と同じく内応した呂布によって殺されてしまう。
注
- ↑ 漢書及び後漢書の郡国志には「南県」という県の記載はなく、前後に脱落があると思われる(『三国志集解』より)