ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ
ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ Віктор Янукович | |||||
ファイル:Agência Brasil 2011 Viktor Yanukovich.jpg |
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任期 | 2010年2月25日 – 2014年2月22日 | ||||
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任期 | 2006年8月4日 – 2007年10月23日 | ||||
元首 | ヴィクトル・ユシチェンコ大統領 | ||||
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任期 | 2002年11月21日 – 2005年1月5日 | ||||
元首 | レオニード・クチマ大統領 | ||||
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢 テンプレート:SSR1923 テンプレート:UASSR ドネツィク州イエナーキエヴェ | ||||
政党 | 地域党 | 配偶者 | リュドミラ・ヤヌコーヴィチ | 署名 | 128px |
ヴィークトル・フェードロヴィチ・ヤヌコーヴィチ(テンプレート:Lang-uk ローマ字表記は、Viktor Fedorovych Yanukovych、1950年7月9日 - )は、ウクライナの政治家。ヤヌコヴィチ、ヤヌコヴィッチ、ヤヌコビッチ、ヤヌコービッチ、ヤヌコーヴィッチとも表記される。大統領(第4代)、元首相(第9・12代)を歴任した。経済科学博士、教授。ウクライナ功労運輸労働者。
経歴
出自
1950年7月9日、ソビエト連邦の一部だったウクライナ共和国ドネツィク州イエナーキエヴェ市に生まれた。父はポーランド人[1]かタタール人[2]。母はロシア人[3]。2歳の時に母を亡くし、経済的にも非常に貧しい環境で暮らした。義母との関係はうまくいかなかったため、家を出た。ビリニュス出身の祖母によって育てられた[4]。
1967年12月15日、17歳の時、「ピフノフカ」暴力団の一員として強盗事件に関わった[5]。懲役3年の実刑判決を受けた[5][6]。7月間をクレメンチュク刑務所で過ごしたが、模範的な行動で(同時期施設にいたムィコーラ・モスコヴチェンコによると警察との協力により)早く解放された[6]。1970年7月8日、新たな強盗事件(一説には強姦事件[7])を起こしたために懲役2年の実刑判決を受けた[6]。1978年12月27日、ドネツク州裁判所は、犯罪の証拠がないという理由で以上の2つの判決を無効とした[6]。裁判所の判断にヤヌコーヴィチの父の親友、ソビエト連邦議会議員ゲオルギ・ベレゴヴォイが関わったという[8][9]。
1969年に中等教育(高等学校相当)を終えると生計を立てるべく働き始める。1972年に地域の輸送部門において電気技師として働きながら、ドネツィク工業大学で学ぶなど苦学を続けた。労働者としては1974年に輸送部門の主任に昇進し、機械工学の学位を授与された1980年には輸送部門全体の総責任者に昇進する。同年にソ連共産党のウクライナ党支部に入党。以降、20年間に亘って同地域の輸送部門責任者として地域の経済・政治活動に関わり続ける。教育面では後に博士号を授与されている。
1996年8月、政府からドネツィク州国家行政府副長官に任命された事から政治活動を本格化させ、1996年9月から1997年5月まで同州第一副長官、1997年5月から2002年11月まで長官を歴任する。1998年9月から内政問題調整会議のメンバー。2002年11月21日、レオニード・クチマ大統領に首相に任命され、2004年12月までとどまる。2003年から地域党の党首。2004年、クチマ大統領の任期切れに伴うウクライナ大統領選挙に親クチマ勢力の統一候補として立候補する。ヤヌコーヴィチは、ドンバスを地盤とし、クチマ政権の内外政策の継続を主張した。
これに対して野党候補のヴィクトル・ユシチェンコ元首相は民族主義勢力を糾合し、前政権下の汚職と非民主化的な政治手法を攻撃した。11月21日の決選投票でウクライナ中央選挙管理委員会は、24日ヤヌコーヴィチが49.64%、ユシチェンコが46.61%を獲得し、ヤヌコーヴィチの勝利を発表したが、その後、与党側の大がかりな選挙不正が明るみに出て、首都キエフでの大規模な抗議運動を引き起こし、決選投票をやり直すこととなった。12月26日選挙が行われ、開票の結果、ユシチェンコが52.12%、ヤヌコーヴィチが44.09%の得票でユシチェンコ側の勝利を発表した。
大統領選挙敗退後、彼は中央政界では公的役職についていなかったが、地域党党首として最高会議内で隠然たる勢力を維持していた。ユーリヤ・ティモシェンコ内閣総辞職後、政権側と与野党間の妥協とも言うべき協力宣言に署名し、ユーリー・エハヌロフ首相の2度目の承認決議では彼の会派は全面賛成に回った。しかし、2006年初頭に天然ガス問題がロシアとの間で生じると、政権批判に回り、エハヌロフ内閣不信任決議の立役者となった。このように、ヤヌコーヴィチはユシチェンコ政権の数々の失政により、漁夫の利的に人気を回復し、2006年3月に行われた最高会議選挙で、彼の地域党は比例区32.12%(450議席中186議席)を獲得し、第一党に躍り出た。議会では、地域党は社会党、共産党と連合を組むことで多数派を構成し、2006年8月4日に賛成271票を得て議会承認され首相職に返り咲いた。2007年9月に行われた選挙では、ヤヌコーヴィチを名簿順位第一位に据えた地域党が再び第一党の地位を確保したものの、連合工作で過半数に届かず、野党にまわった。
大統領
2010年の大統領選挙に立候補し、1月17日に行われた第1回投票の結果、約35%の得票率で1位となったが過半数には届かなかったため、ユーリヤ・ティモシェンコとの決選投票に臨み、2月7日の投票の結果勝利。2月14日にティモシェンコが選挙にて不正が行われたと主張、法廷闘争に持ち込む意向を表明し[10]、2月16日にウクライナ最高行政裁判所に提訴した[11]ものの、2月20日、ティモシェンコが訴えを取り下げたため、ヤヌコーヴィチの当選が確定した[12]。
2011年1月には日本を公式訪問した。日本滞在時には大勲位菊花大綬章を今上天皇より授与されている[13]。
ウクライナは2013年に欧州連合との政治・貿易協定の仮調印を済ませたが、ロシア寄りの姿勢を見せるヤヌコーヴィチはロシアからの圧力もあり調印を見送る[14]。これに対し欧州連合寄りの野党勢力から強い反発が起こり、ウクライナ国内は大規模な反政府デモが発生するなど騒乱状態に陥った(2014年ウクライナ騒乱)。事態収拾のため2014年2月21日には挙国一致内閣の樹立や大統領選挙繰り上げなどの譲歩を示したがデモ隊の動きを止めることはできず[15]、22日に首都キエフを脱出。ウクライナ議会はヤヌコーヴィチの大統領解任を決議したが、ヤヌコーヴィチはクーデターであるとして辞任に同意していない[16]。
人物
ヤヌコーヴィチの年収は公式には10万ドルとされていた。しかし、政権崩壊後、ヤヌコーヴィチがキエフを離れてからマスメディアが邸宅に入ることで、私設動物園やゴルフコースが存在するなど贅沢三昧な暮らしをしていたことが明らかになっている[17]。
家族
- 父:フェジィール・ヤヌコーヴィチ(Федір Володимирович Янукович, 1923年 — 1991年):ベラルーシ出身。家系はポーランド人で、祖父はワルシャワ出身[18]。
- 母:オリガ・ヤヌコーヴィチ(Ольга Семенівна Янукович, 1925年 — 1952年):ロシア人。
- 長男:オレクサンドル・ヤヌコーヴィチ(Олександр Федорович Янукович, 1973年 - ):歯科医。
- 次男:ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ(Віктор Вікторович Янукович, 1981年 - ):ウクライナ最高議会議員。
脚注
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ヴィクトル・ユシチェンコ
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon ウクライナ大統領
第4代:2010 - 2014
|style="width:30%"|次代:
オレクサンドル・トゥルチノフ
(代行)
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
アナトリー・キナフ
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon ウクライナ首相
2004年12月7日~28日はミコラ・アザロフが代行
第9代:2002 – 2005
|style="width:30%"|次代:
ミコラ・アザロフ
(代行)
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ユーリー・エハヌロフ
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon ウクライナ首相
第12代:2006 – 2007
|style="width:30%"|次代:
ユーリヤ・ティモシェンコ
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク
|style="width:40%; text-align:center"|地域党党首
2003 -
|style="width:30%"|次代:
(現職)
- ↑ Янукович рассказал «Газете Выборчей», что у него польские корни — Новости Украины. Интерфакс-Украина
- ↑ Виктор Янукович оказался по происхождению татарином
- ↑ Партия регионов. Официальный информационный сервер
- ↑ Партия регионов. Официальный информационный сервер
- ↑ 5.0 5.1 Януковичу возвращают судимости. «Российская газета», Федеральный выпуск № 3819 от 13 июля 2005 года
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 «Прємьєр-міністр» Янукович, или неофициальная биография для тех, кто подзабыл
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ Янукович прилетит в Москву на могилу своего покровителя
- ↑ Political leaders of Ukraine
- ↑ 「ティモシェンコ首相、敗北認めず法廷闘争へ ウクライナ大統領選」 フランス通信社、2010年2月14日。
- ↑ 「ティモシェンコ氏、ウクライナ大統領選の無効確認求め提訴」 フランス通信社、2010年2月17日。
- ↑ 「ティモシェンコ首相、提訴取り下げ=ヤヌコビッチ氏当選確定へ-ウクライナ大統領選」 時事通信社、2010年2月20日。
- ↑ 外国人叙勲告示 日本国外務省プレスリリース 2011年1月11日付
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Citenews
- ↑ "Был ли отец украинского премьера Януковича "полицаем" в Беларуси?" Belarus Eurradio, September 27, 2007.