リチャード・ストールマン
テンプレート:Infobox Engineer リチャード・ストールマン(Richard Matthew Stallman、1953年3月16日 - )は、アメリカ合衆国のプログラマー、フリーソフトウェア活動家。コピーレフトの強力な推進者として知られ、現在にいたるまでフリーソフトウェア運動において中心的な役割を果たしている。また、プログラマとしても著名な存在であり、開発者としてその名を連ねるソフトウェアにはEmacsやGCCなどがある。なお、名前の頭文字を取ってRMSと表記されることもある。
目次
年表
- 1953年 - ダニエル・ストールマンとアリス・リップマンの子としてニューヨークに生まれる[1]。
- 1971年 - ハーバード大学に入学。Math55で好成績を残し[2]、MIT AI研のプログラマとなりハッカーコミュニティに加わる。
- 1974年 - 物理学の学位を取得し[3]、最優等の成績で大学を卒業。これに続いてMITの大学院に入学するが、MIT AI研でプログラマとしての活動を続けるうちに、物理学の研究をやめ、博士号をとることを放棄する。
- 1983年 - GNUプロジェクトを創始。
- 1984年 - GNUプロジェクトに専念するためMITを退職。
- 1985年 - GNU宣言の発表。
- 1990年 - Grace Murray Hopper賞受賞。
- 1996年 - スウェーデン王立工科大学名誉博士号。
- 1998年 - EFFパイオニア賞。
- 1999年 - オンラインの百科事典プロジェクトGNUPediaの開発を提唱。Yuri Rubinsky記念賞受賞。
- 2001年 - 武田賞を受賞。グラスゴー大学名誉博士号。
- 2002年 - 全米技術アカデミー会員。
- 2007年 - パビア大学名誉博士号。
- 2009年 - レイクヘッド大学名誉博士号。
MITでの活動
大学院生として
最終的には、AI研のプログラマとなる道を選び、博士研究を断念することになるものの、ストールマンは研究者としてもいくつか重要な業績を残している。例えば、1977年には、Gerald Jay Sussman と TMS(Truth maintenance system) に関する論文を発表しており[4]、これはある種の先駆的な業績とされている。
プログラマとして
ストールマンはハーバード大学在学中から、MITのAI研にてプログラマをしていた。AI研での活動はMITの院生となってからも続き、1984年にMITの職を辞すまで続くことになる。ここでの重要な実績としては、TECO、Emacs、LISPマシンOSの開発が挙げられる。
ハッカー文化の旗手として
1970年代の後半から1980年代の初めにかけて、MITのハッカー文化は徐々に解体していったが、ストールマンはこの衰退に対する熱烈な批判者として活躍した。
1977年、MIT CS研はパスワード制を導入し、これまで自由であった匿名アクセスを禁止する。これに対しストールマンはパスワードを解読する方法を見つけた上で、パスワードを空白文字に変更するよう促す(実質的に旧来通りの匿名アクセスを可能にできる)メッセージを付け、パスワードの入ったメッセージを各人に送りつけるという反対運動を行う。パスワード制を覆すまでには至らなかったものの、これにより全体の20%がストールマンに賛同し、パスワードを変更する。
同時期に、ソースコードを配布するという文化が廃れ、コピーライトを用いてコピーや再配布を制限するのが一般化した。この代表がScribeであり、1979年にはこのソフトウェアに一種の「時限装置」が組み込まれ、ライセンス無しのアクセスが強力に禁止されるに至る。この制約に対して、ストールマンは「(ユーザーの自由を制限することは)人類に対する罪である」[5]と痛烈に批判する。
そして、1980年代に入ると、LISPマシンの開発を巡り、AI研内部がベンチャーキャピタルの融資を拒否するLMI社と融資を受け入れるSymbolics社に分裂。両社ともプロプライエタリなソフトウェアを提供していたが、ストールマンはハッカーコミュニティに親和的であった前者を支持し、1982年から1983年にかけてSymbolics社のプログラムのクローンをする作業に取り組む。
GNUプロジェクト
プロジェクトの創設
1983年9月、GNU OS計画の概要をARPANET上の複数のメーリングリストとUSENETで公表。1985年にはGNU宣言を発表し、「GNU」という名前の自由なUNIX互換OSの開発を正式に提唱する。同年10月に非営利団体の Free Software Foundation を創設し、1989年にはプログラミング自由連盟(League for Programming Freedom)を共同設立する。
プロジェクトの成果
GNUプロジェクトは、まもなくして多くの成果をもたらすことになった。実際に、1990年までに多くのGNUシステムの開発が完了し、ストールマン自身が開発に携わったものだけでもEmacs・GCC・GDB・gmakeといったソフトウェアが生み出されている。ただし、本来の目的であったカーネル自体の開発は遅れ、2010年現在も未だに一般的に利用できるまでに成熟していない(詳細は GNU Hurd を参照)。
さらに、このプロジェクトの中で、ソフトウェアの変更と再配布の権利を法的に保護するコピーレフトの概念が広まったことも成果の一つに数えられる。このコピーレフトの概念は、GNU Emacs General Public License において初めて実装されたが、1989年にはどのソフトウェアにも用いることのできるライセンスとして GNU General Public License がストールマンの手で書かれている。
論争
一方で、GNUプロジェクトは、特に思想面において数々の論争を引き起こすプロジェクトでもあった。例えば、1992年前後には、EmacsをめぐりLucid社の開発者との対立が表面化し、結果的にXEmacsの分岐を招いた。また、1991年にリーナス・トーバルズがGNUの開発ツールを採用して以来、GNUのプログラムはLinuxに移植されて広く用いられるようになったが、これは今日まで続く GNU/Linux という名前を巡る論争を引き起こすことになる。ここでプロジェクトの理念的な側面を重視して、GNUの名前を用いることを強固に主張したのは他ならぬストールマンであった。
このストールマンの強い思想性に対する評価は分かれている。ジャーナリストのアンドリュー・レオナルドは、ストールマンの「決して妥協しない頑固さ」を才能ある有能なプログラマに共通に見られる特徴だとする[6]。
海外での活動
2004年、ストールマンはベネズエラでフリーソフトウェアの採用を訴える講演を行い、チャベス大統領から好意的な反応を得ている[7][8]。また、2006年にはインドのケララ州政府との交渉の場を持ち、同州にある一万校余りの高校のコンピューターのOSをWindowsからGNU/Linuxに切り替えさせることに成功している[9]。
人物
私生活
ストールマンは質素な生活で知られる。彼はリサーチ・アフィリエイトとしてMITに在籍しているが無給であり、また、同大学のコンピュータ科学・人工知能研究所にオフィスを構えている以外には、定住のための住居を持っていない。彼はこの生活について「私はいつも安上がりな生活をしてきた……つまり学生みたいにね。私はそういう生活が好きなんだ。そういう生活ならカネの言いなりになる必要がないからね」[10]としている。
また、プライバシーの問題に強い意識を抱いていることでも知られている。例えば、追跡を受けることで重大なプライバシー侵害が生じうるという理由[11]で携帯電話を持たないことを推奨しており[12]、同様に入室の時間と回数の追跡が可能になるという理由で、オフィスのある建物のカードキーを使うことを避けている[13]。さらに、「個人的な理由」から、GNUやFSFの自分のページかそれに関連するページ以外は自分のコンピューターから直接ブラウズすることはないと述べている。代わりに、wgetを動かしているサーバーにメールを送り、見たいページをメールで送らせるという方法を用いているという[14][15]。
ストールマンは多言語話者でもある。彼の母国語は英語であるが、彼はそれに加えてスペイン語とフランス語も流暢に話すことができ、実際にこれらの言語で二時間のスピーチも行っている。本人によれば、カタコトではあるがインドネシア語も使えるという[16]。
趣味
ストールマンはコンロン・ナンカロウ[17]からフォーク音楽[18]に至るまでの幅広い音楽を好んでいる。ベラ・フレック&ザ・フレックトーンズやワイアード・アル・ヤンコビックも好きであると述べている[19]。
彼は作曲も行っており、ブルガリアのフォークダンス音楽「サディ・モマ」の替え歌としてフリーソフトウェアの歌を作っている。最近では、キューバのフォークソング「グアンタナメラ」を元に、グアンタナモ米軍基地の囚人のことを歌った歌を書き上げ、キューバにて現地の音楽家とともにレコーディングしている[20]
また、ストールマンはSFのファンでもあり、グレッグ・イーガンの作品を好んでいるという。ストールマン自身、「The Right to Read」と「Jinnetic Engineering」という二つのSF作品を書き上げている。
宗教
1999年の記事の注釈によれば「私は無神論者なので、どの宗教的指導者にも従おうとは思わないが、ときに彼らの言ったことには尊敬の念を覚える」としている[21]。
なお、ストールマンは12月25日をクリスマスではなくGrav-massとして祝うことを提唱している。これはアイザック・ニュートンを祝う日であり、彼が旧暦の12月25日に生まれたことにちなむものである。
政治
影響を受けた人物について、ストールマンはマハトマ・ガンディー、キング牧師、ネルソン・マンデラ、アウン・サン・スー・チー、ラルフ・ネーダー、デニス・クシニッチの名前を挙げたうえ、「フランクリン・ルーズベルトやウィンストン・チャーチルも尊敬しているね。彼らの行ったことの一部には批判的なのだが」と述べている。また、ストールマンは緑の党の支持者であり、国民投票による立法制度の実現を目指すナショナル・イニシアティブ運動の支持者でもある[22]。
ストールマンは電子投票の反対者でもある。実際に、2008年3月1日に行われたマンチェスターでの講演の中で、投票用紙のコピーさえあれば再集計がより容易であるという理由で、ストールマンは紙による投票を擁護している[23]。
関連項目
参考文献
外部リンク
- Richard Stallman's Personal Home Page
- インタビュー
- Freedom, Innovation, and Convenience: The RMS Interview (2004年)
- ITmedia Sunの無意味な発表 (2005年)
- 見直しがすすむGPL (2005年)
- BitKeeperとの決別はハッピーエンド (2005年) japan.linux.com (SourceForge.JP Magazine)
- テンプレート:青空文庫著作者
- Stallmanの理念に準じたサイン販売 (2006年) japan.linux.com (SourceForge.JP Magazine)
テンプレート:Linux テンプレート:GNU テンプレート:フリーソフトウェア財団 テンプレート:Normdaten
- ↑ "Richard Stallman's mother, Alice Lippman, still remembers the moment she realized her son had a special gift." Chapter 3, Free as in Freedom http://oreilly.com/openbook/freedom/ch03.html
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ http://www.stallman.org/
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite book Chapter 6. Available under the GFDL in both the initial O'Reilly edition (accessed on 27 October 2006) and the updated FAIFzilla edition . Retrieved 27 October 2006.
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ Stallman, Richard. "Encounter with President Chavez (2004-12-01 to 2004-12-06)". Richard Stallman Travel and Free Software Activities Journal.
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ http://mail.gnome.org/archives/foundation-list/2011-January/msg00043.html
- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ テンプレート:Cite book
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- ↑ テンプレート:Cite speech