ラウル・ワレンバーグ

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ラウル・ワレンバーグ(1944年撮影)

ラウル・グスタフ・ワレンバーグRaoul Gustaf Wallenberg スウェーデン語読みではラオル・グスタフ・ヴァレンベリ1912年8月4日 - 1947年7月17日?)はスウェーデンの外交官、実業家。第二次世界大戦末期のハンガリーで、迫害されていたユダヤ人の救出に尽力。外交官の立場を最大限に活用して10万人にもおよぶユダヤ人を救い出すことに成功した。しかし、ドイツ撤退後に進駐してきたソ連軍に拉致されて行方不明となった。ワレンバーグの捜索は現代に至るまで続けられている。彼の曽祖父のグスタフ・ヴァレンバーグは、日本で外交官として働いた。

生涯

生い立ち

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青年時代のワレンバーグ

ラウルはストックホルムの東にあるリーディング島で1912年8月4日に生まれた。父親のラウルは息子が生まれる数ヶ月前になくなったため、母のマイはその名前を息子に与えた。彼の一族は有名な銀行家一家であり、ラウルはやり手だった祖父グスタフの薫陶を受けて育った。

ラウルは高校を首席で卒業し、兵役をすますと、アメリカ合衆国ミシガン大学へ留学した。建築学をおさめてスウェーデンに帰国すると、世界を見てほしいという祖父の願いに答えて南アフリカパレスティナで貿易商、銀行家として働いた。そこでナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人たちに出会ったことが後の彼の運命を決めることになる。1938年、ユダヤ系ハンガリー人貿易商コロマン・ラウアー(ラウエル・カールマーン)に見出されてその右腕となると、ヨーロッパの各地で活躍した。

ナチスとユダヤ人

当時のヨーロッパはナチス・ドイツによって席巻されていた。ナチスは1942年に悪名高い「ユダヤ人問題の最終的解決」計画を打ち出し、各地の強制収容所にユダヤ人を送り込んで絶滅させようとした。ユダヤ人はこれに対して世界に救済を呼びかけたが、相手にされなかった。わずかにデンマークブルガリアがナチスの言いなりにならなかった為ユダヤ人たちは迫害を免れたが、世界の国々は事実上ユダヤ人の訴えを黙殺していた。しかし、徐々にナチスの残虐行為の実体があきらかになると世論は変化し、1944年に入ると再選を目指した米国のルーズベルト大統領がユダヤ人ロビーを無視できなくなってナチスのユダヤ人政策を激しく批判し始めた。その一環として「戦時亡命者委員会」がつくられ、ついにアメリカ合衆国がユダヤ人保護にのりだした。

1944年3月、マルガレーテI作戦によりハンガリー王国はドイツ軍の占領下に置かれた。親独派の首相ストーヤイ・デメはドイツ国内へのユダヤ人移送を始めるなど、ハンガリー国内のユダヤ人に危機が迫っていた。「戦時亡命者委員会」はハンガリーへ派遣できる人材を探しはじめ、中立国スウェーデンに打診。スウェーデン側がハンガリーのユダヤ人社会の代表たちの意見を聞いた。そのなかにコロマン・ラウアーがいたため、ワレンバーグに白羽の矢がたった。

ワレンバーグの活躍

ユダヤ人の窮状を知っていたワレンバーグは、自分に外交官特権を付与してくれることを条件にこれを受諾、危険を承知の上で1944年7月ハンガリーのブダペストに赴いた。

ワレンバーグはスウェーデン名義の保護証書(Schutz-pass)なるものを発行することでユダヤ人たちをスウェーデンの保護下におこうと考えた。これは国際法的にはまったく効力のないものであったが、杓子定規な書類仕事を好むナチス・ドイツの性癖を逆手にとり、不思議とよく機能し多くのユダヤ人の命を救った。つまり、これを作成し、配布することで、所持者はスウェーデンの保護下にあることになり、ナチスの手から救い出すことができたのである。

他にもセーフハウスといわれる家を各地に設置して、そこをスウェーデンの外交官特権で保護し、多くのユダヤ人を受け入れた。また、保護証書を大量に印刷してはユダヤ人に配布し、ナチスの兵隊たちの前でも一歩も退かなかった。あるとき、多くのユダヤ人が貨物列車につめられてブダペスト駅から国境へ送られると聞くと、駅へ急行し、親衛隊の制止を無視して保護証書を配り、ついには列車の屋根に上って多くのユダヤ人に保護証書を渡した。そしてハンガリー国境を出る前に、外交官の権利によって多くのユダヤ人を解放することに成功した。

1944年10月、ハンガリーではドイツ軍によって政府が倒され(パンツァーファウスト作戦)、反ユダヤ主義の「矢十字党」が政権を握った(ハンガリー国)。ドイツはさらなるユダヤ人迫害を実行するため、アドルフ・アイヒマンをハンガリーに送り込んだ。矢十字党政府と占領者のドイツ軍によってユダヤ人迫害は本格化された。その中で十万人近いユダヤ人たちをハンガリー国境まで歩いて移動させ、そこから収容所へ送るという「死の行進」が実行された。道中で多くのユダヤ人が倒れたが、ワレンバーグはそこでも保護証書を配ってユダヤ人を救い出し、国際世論に訴えてそれをとめさせることに成功した。さらにブダペストからの撤退するドイツ軍がユダヤ人をゲットーに閉じ込めて皆殺しする計画を建てていたことを知り、責任者である将校に直接交渉してこれを阻止している。ドイツ側にとってワレンバーグは邪魔者であり、彼の身にはたびたび危険が迫った。

失踪、その後

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ロンドンにあるラウル・ワレンバーグ記念碑

1945年1月、ナチスを追い払ってソ連軍がブダペストへやってきた。1月16日、ついに肩の荷がおりたと感じたワレンバーグは、今後のユダヤ人の保護のあり方についてソ連軍指導部と会見すべく司令部へ向かった。ワレンバーグの仲間たちは止めたが、彼は笑顔で出て行った。これがワレンバーグの最後の姿となった。

そのまま、ワレンバーグは消息を絶った。実際にはヴィクトル・アバクーモフ配下のソ連秘密警察により「アメリカのスパイ」容疑で逮捕され、強制収容所へ送られた説がある。これに関しては、アメリカOSS内部でワレンバーグをさして、「最高のスパイマスターになれる人物」と誤解を招くような評価がなされていたことも一因と思われる。ワレンバーグに救われたユダヤ人たちを中心に「国際ワレンバーグ協会」が設置され捜索が続けられたが、現在に至るまで発見されていない。

1957年、当時のソ連外務次官グロムイコは、ワレンバーグがソ連国家保安省の刑務所で心筋梗塞のため死亡したと、スウェーデン大使に公式に通知したが、この際、いかなる証拠も示されなかった。 1979年にはイスラエルでワレンバーグの顕彰碑がつくられ、1986年にイスラエルで初めての名誉国民に選ばれた。アメリカ合衆国でも1981年にワレンバーグに名誉市民権が与えられた。これはそれまでウィンストン・チャーチルにしか与えられていなかったものである。現在ではブダペストにも記念碑がたてられている。1996年にはイスラエル政府はユダヤ人救済の功績をたたえてワレンバーグにヤド・ヴァシェム賞を贈り、「諸国民の中の正義の人」とした。

1986年に始まったゴルバチョフ政権のグラスノスチによって多くの機密資料が解禁され、その中にワレンバーグが1947年7月に収容所で病死したとする資料が発見された。1989年、ソ連政府は、ワレンバーグの遺族をモスクワに招待し、彼の遺品を遺族に返還した。1991年、ソ連・スウェーデン共同の調査委員会が設置され、1993年にはワレンバーグの逮捕及びモスクワへの移送に関するソ連国防人民委員ニコライ・ブルガーニンの第2ウクライナ戦線司令官ロディオン・マリノフスキー宛の命令が、スウェーデンの新聞紙上に掲載された。2000年12月、ロシア検察総庁はワレンバーグの名誉回復手続に着手し、2001年1月、名誉回復の文書がスウェーデン大使とハンガリー大使に手渡された。

しかし、現在にいたるまでワレンバーグの死は公式に認められておらず、1947年以降の目撃情報も伝えられているため、調査が続けられている。

2010年4月1日、ロシア・セキリュティー・サービスの資料室から、ワレンバーグが死亡したとソ連当局が発表した6日後に行われた「囚人第7番」と呼ばれる男の尋問録が見つかり、この人物がワレンバーグと同一人物である可能性が高いとされ、今後の調査が待たれる[1]

ワレンバーグの功績は世界中で評価され、世界各国で学校名に使用されている。また1981年にはアメリカにてラウル・ウォーレンバーグ委員会が設立され、ミシガン大学では人権、人道を表彰するワレンバーグ勲章(Wallenberg Medal)を1990年から贈っている。ブダペストのゲットー地区であったドハーニ街シナゴーグにはラウル・ワレンバーグ ホロコースト記念公園がある。

家族

母・マイは再婚したが、1979年に夫とともに薬物過剰摂取自殺した。二人の自殺の原因は、ラウルを見つけられない絶望からであったとラウルの妹にあたるニーナが証言している。ニーナの娘であるナーネは第7代国際連合事務総長コフィー・アナンと結婚した。

映像化

1985年にアメリカNBCのテレビ映画『Wallenberg: A Hero's Story』(リチャード・チェンバレン主演)、1990年のスウェーデン映画『Good Evening, Mr. Wallenberg(Good Evening, Mr. Wallenberg)』ではステラン・スカルスガルドがラウル役を演じた。スペインのテレビ番組制作社によるドキュメンタリー番組『Raoul Wallenberg: Buried Alive』(1984年) 『Searching for Wallenberg』(2003年) 『El ángel de Budapest(Angel of Budapest) 』(2011年1月)が製作、放送されている。

関連項目

参考文献

  • ベルント・シラー著、田村 光彰・中村 哲夫訳、『ユダヤ人を救った外交官 ラウル・ワレンバーグ』、明石書店、2001年
  • M.ニコルソン、D.ウィナー著、日暮 雅通訳、『伝記世界を変えた人々 (6) ワレンバーグ-ナチスの大虐殺から10万人のユダヤ人を救った、スウェーデンの外交官』、偕成社、1991年
  • アブラハム クーパー著、徳留 絹枝訳、宮尾 三枝子絵、『いのちのパスポート』、潮出版社、2002年

外部リンク

脚注

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  1. http://www.nytimes.com/aponline/2010/04/01/world/AP-EU-Sweden-Wallenberg-Mystery.html