マヌエル・ノリエガ
テンプレート:Infobox 軍人 マヌエル・アントニオ・ノリエガ・モレノ(Manuel Antonio Noriega Moreno, 1934年2月11日 - )はパナマ共和国の軍人、政治家で、1983年から1989年まで間は独裁者として君臨した同国の最高司令官(将軍)である。日本の報道ではノリエガ将軍の通称で呼ばれた。
人物
経歴
1983年、パナマ軍最高司令官に就任。隣国コロンビアの麻薬組織(メデジン・カルテル)と結びつき、パナマからアメリカ合衆国へコカインなどを密輸するルートを私物化。さらに、反米国家のリビア人(カダフィ政権)やキューバ人に対してアメリカ合衆国の査証やパスポートを闇ルートで転売していた。1989年に大統領選挙に出馬したが、落選が確実になると軍をあげて選挙の無効を宣言。
しかしその5日後、麻薬の不正浄化や在パナマ米軍兵士の殺害、選挙結果の不履行を理由にジョージ・H・W・ブッシュ大統領による米軍のパナマ侵攻を受ける。圧倒的な物量差を前にパナマ国防軍は敗北する。戦闘による混乱の中彼は拘束され、麻薬密輸の罪で懲役40年(後に30年に減刑)の判決を受ける。フロリダ州マイアミで服役中だったが、模範囚であることを理由に刑期は短縮され2007年9月9日に釈放された。
本人はパナマに帰国して隠退生活を望んでいたとされるが、フロリダ州連邦地裁は2007年8月28日にノリエガの身柄を刑期終了後にフランスに引き渡すとする決定を下した[1]。フランスでは、同国内の銀行口座を使って麻薬資金の洗浄を行っていたとして1999年に欠席裁判のままノリエガに対し禁固10年の有罪判決が下されており、アメリカに対して身柄引き渡しを要求していた。その後アメリカ国務長官ヒラリー・クリントンが引き渡し命令に署名し、2010年4月26日にノリエガはフランスへ移送され[2]、同年7月7日にパリの裁判所にて禁固7年の有罪判決が下されている[3]。
パナマでは、政敵であったウーゴ・スパダフォラ殺害の容疑にて、ノリエガに禁固20年の判決が出ている。ノリエガはこれに対して、裁判で無実を勝ち取るとしている。
2011年12月11日、ノリエガはフランスからパナマへ送還され現地到着後収監された。彼にとって22年振りの母国帰国となった[4]。
2012年2月5日、ノリエガは高血圧症のためパナマ市内の病院に搬送された[5]。
2014年7月15日、ゲーム「コール オブ デューティ ブラックオプス2」において名前を無断で使用され、「誘拐犯」「殺人者」と描かれたとして、カリフォルニア州のゲーム会社に対し損害賠償を求める訴訟を起こした[6]。
その他
ノリエガは、1950年代からCIAのために活動していたといわれる。オマル・トリホス政権ではパナマの諜報機関G2の責任者を務め、CIAがG2の訓練を行なっていた。ブッシュ大統領がCIA長官を務めていた1976年当時、ノリエガはCIAから年間11万ドルを受け取り、各地のパナマ大使館から得た情報をCIAに流していた。 一方でノリエガは、アメリカと敵対するキューバのカストロ政権やニカラグアのサンディニスタ政権など中米・カリブ海の左派政権とも関係を持ち、多重に取引をしていた [7]。
脚註
- ↑ パナマのノリエガ元将軍、刑期終了後は仏へ…米連邦地裁 読売新聞 2007年8月29日
- ↑ パナマのノリエガ元将軍、米から仏へ身柄引き渡し
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ ノリエガ元将軍22年ぶりパナマ帰国、即収監
- ↑ 服役中のノリエガ元将軍、病院に搬送 パナマ
- ↑ ノリエガ元将軍、ゲーム会社を提訴 「殺人者」に不満 朝日新聞 2014年7月17日
- ↑ 『スパイの世界史』海野弘(文春文庫)※ただし『独裁者追放 ブッシュVSノリエガ』フレデリック・ケンプ/西脇理一 訳(徳間書店)からの引用
関連項目
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ルベン・ダリオ・パレデス テンプレート:Enlink
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon パナマ共和国軍最高司令官
1983 - 1989
|style="width:30%"|次代:
ギジェルモ・エンダラ テンプレート:Enlink
(軍解体、大統領)
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