アミルカレ・ポンキエッリ
アミルカレ・ポンキエッリ(あるいはアミルカーレ・ポンキエルリ)(Amilcare Ponchielli, 1834年8月31日 - 1886年1月17日 ミラノ)はイタリアのオペラ作曲家。
概説
クレモナ近郊のパデルノ・ファソラーノ(現パデルノ・ポンキエッリ)に教会音楽家の家庭に生まれる。9歳で奨学金を得てミラノ音楽院で音楽を学び、10歳にならずして最初の交響曲を作曲した。音楽院卒業から2年後の1856年に、アレッサンドロ・マンゾーニの有名な小説に基づき最初のオペラ《婚約者 I promessi sposi》を作曲し、この作品でオペラ作曲家としての名声を次第に築いていった。最も有名なオペラ作品は《ラ・ジョコンダ La Gioconda 》(1876年初演)で、ヴィクトル・ユーゴーの戯曲に基づきアッリーゴ・ボーイトが脚本を書いた。
初期の経歴は不遇であった。選抜試験で手に入れたミラノ音楽院教授職から追い出され、小さな都市でつまらぬ仕事をして糊口をしのがなければならなかった。転換点は、1872年における《婚約者》改訂版の上演で、これによって楽譜出版社リコルディやミラノ音楽院当局ならびにスカラ座と契約を結べるようになったのである。バレエ音楽の佳作《2つの双眼鏡 Le due gemelle》(1873年)によってポンキエッリの名声は確固たるものとなった。
《ラ・ジョコンダ》の後でポンキエッリの音楽的な創意は落ち込んだかのようで、その後のオペラで同じような成功に出くわすことはなかった。1881年にポンキエッリはベルガモ大聖堂の楽長職maestro di cappellaに任命され、1883年から母校ミラノ音楽院で作曲家教授を勤めた。ジャコモ・プッチーニやピエトロ・マスカーニは門人である。1886年、急性肺炎のためミラノにて没。 ヴェルディはポンキエッリの訃報に接し、次のように言った。
可哀想なポンキエッリ、あんなにいい奴だったのに、あんなに立派な音楽家だったのに。
生前ポンキエッリは人気と影響力に非常に恵まれ、拡大されたオーケストラと、より複雑なオーケストレーションを取り入れたにもかかわらず、こんにち定期的に演奏されているオペラは、唯一《ラ・ジョコンダ》だけとなっている。このオペラには、ソプラノの名アリア「私は死のう "Suicidio!"」やバレエ音楽「時の踊り Danza dell' Ore 」が含まれている。
作品
オペラ
- 愚人市長 Il sindaco babbeo(学生時代の習作オペラ)
- ベルトランド・デ・ボルニオ Bertrando dal Bormio(トリノ公演のために作曲、上演は実現せず)
- 婚約者 I promessi sposi (初稿1856年クレモナ初演、改訂稿1872年ミラノ初演)
- リーナ Lina(1877年)
- ゴート族の王ロデリクス Roderico, re dei Goti(1863年)
- いつまでも喋る男 Il parlatore eterno (1873年(バリトンのためのモノローグ)
- リトアニア人 I Lituani (初稿1874年、改訂稿1884年~5年)
- ラ・ジョコンダ La Gioconda (初稿1876年、1876年4月8日ミラノで初演、改訂稿1880年)
- 放蕩息子 Il figliuol prodigo (1880年)
- マリオン・デロルメ Marion Delorme (1885年)
- バレンシアのムーア人 I Mori di Valenza (未完。死後、息子とA.カドーラにより補筆。1914年初演)
その他
- オーボエと管弦楽のためのカプリッチョ
- 管弦楽のための悲歌
- トランペット協奏曲op.123
- コルネット協奏曲op.198
ポピュラー音楽での使用
「時の踊り」はディズニー映画「ファンタジア」(1940年)に流用されて有名となった。その後1962年にナンシー・シナトラが「レモンのキッス」(原題: Like I Do)としてポピュラー・ソングにアレンジして歌った。この歌はアメリカ本国より日本で人気が生じ、ザ・ピーナッツをはじめ多くの歌手がカバーした。2002年には小柳ゆきが「Lovin' You」の題でアレンジを行い、スマッシュ・ヒットを飛ばしている。