ハマダーン州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 イランの州

ハマダーン州ペルシア語: استان همدان Ostān-e Hamadān)は、イラン州(オスターン)。州都はハマダーン。面積19,546km²、1996年現在、人口は約170万人。

州都ハマダーンのほかトイセルカーンネハーヴァンドマラーイェルアサダーバードバハールラザン, キャボド・ラーハングの諸都市がある。

地理と気候

ハマダーン州は北西から南西にザーグロス山脈の一部「アルヴァンド」の山々が走り、全体に標高の高い地域にある。

ハマダーンは夏穏やかで、冬はかなり寒く、亜寒帯気候である。州都ハマダンの1月の平均最低気温は-10度を下回る。

テンプレート:Weather box

歴史

ファイル:Hamadan (Iran) Relief Achamenid Period.JPG
ギャンジュ・ナーメ。ダリウスの献詞がある。紀元前5世紀

ハマダーン州はイラン文明で最も古い歴史をもつ地域の一つで、州内の遺跡がこれを物語る。詩人フェルドウスィーによると、神話時代、偉大なる王ジャムシードにより建設されたという伝説をもつ。今日のハマダーンは、古代オリエントのメディア王国の首都エクバタナであった。

ヘロドトスによれば、紀元前8世紀ころ、デイオケスという人物が現れてメディアを統合し、エクバタナに7重の城壁(ハフト・ヘサール)を巡らせて都として成長させたとある。当時はバビロンの塔に劣らぬ偉容を誇ったという。その後も、メディアの歴代王によって、周辺の開発が進み、帝国の巨大な首都へと変貌していったとされる。

メディア滅亡後も、アケメネス朝ペルシアおよびアルサケス朝の夏の都(夏営地)として栄え、サーサーン朝時代にも夏の宮殿が置かれた。

642年ニハーヴァンドの戦いがあり、ハマダーンはアラブの手に落ち、繁栄は衰退にかわった。ブワイフ朝下でも多くの害を被るが、11世紀にはセルジューク朝バグダードから再遷都した。

ハマダーンは支配勢力の権力の盛衰にともない常に襲撃の的となったが、ティムールの侵攻では完全に破壊され、繁栄を取り戻すのはサファヴィー朝の時代である。18世紀には都市はオスマン朝に降伏するが、英傑ナーディル・シャー・アフシャールによって押し返し、オスマン朝との和平によって、再びイランに戻った。

ハマダーンの街は東西交易路、イラン西部の交通の大動脈上に位置し、近代に至るまで交易・商業から大きな利益を得た。

今日のハマダーン

高等教育機関

  1. イブン・スィーナー大学
  2. ハマダーン医科大学
  3. イスラーム自由大学ハマダーン
  4. イスラーム自由大学トイセルカーン

旧跡

州内には歴史的遺産が多く、イラン文化遺産協会には442ヵ所が登録されている。そのうち以下のようなものが有名。

  1. 詩人バーバー・ターヘル廟
  2. ギャンジュ・ナーメ(ダーラヤワウ大王(ダレイオス1世)の献詞)
  3. エステルおよびモルデカイ
  4. アリー・サドル(アルデレス)洞
  5. イブン・スィーナー
  6. ギャンジュ・ナーメの滝

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:Navbox