ダレイオス1世
ダレイオス1世(テンプレート:仮リンク: 𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁 - Dārayavahuš - ダーラヤワウシュ, テンプレート:Lang-en, 紀元前558年頃 - 紀元前486年) はアケメネス朝ペルシア第3代の王(在位:紀元前522年 - 紀元前486年)。通称、ダレイオス大王。
目次
名称
テンプレート:仮リンクではダーラヤワウ(Dārayavau-:名詞幹のみの形)。 この名は「ワウ(よきもの)を保持する者」という意味である。 ギリシア語形のダレイオス(テンプレート:Lang-grc - ダーレイオス)またはラテン語形ダリウス (Darius) でも知られる。聖書ヘブライ語・アラム語では דָּרְיָוֶשׁ Dārĕyāweš。
略歴
出生
紀元前550年頃、バクトリアでサトラップだったテンプレート:仮リンクの長子として生まれた。
王朝簒奪説
ダレイオス1世は内乱の後、推戴されて帝位についたとされるが、この事件は、ダレイオスによるキュロスの王朝の簒奪説が近年提起されている[1][2]。
インド遠征
テンプレート:Main 紀元前521年、パンジャーブ・シンドを征服。紀元前520年、ペルセポリスの建設に着手。
スキタイ征伐
スキタイ人征伐のため南ロシア平原に侵攻したが、スキタイの焦土作戦に苦しめられて撤退した。
ペルシア戦争
イオニア植民市の反乱を機として、ギリシアとの間で、約50年に及ぶペルシア戦争を開始させた。しかし、戦争の途中でダレイオスは死去し、戦いは息子のクセルクセス1世に引き継がれた。
政治・文化
国内統治
ダレイオスは、全土を約20の行政区(サトラピー)に分割し、それぞれに総督(サトラップ)を配置した。その上で各地を結ぶ交通網を整備し、総督の監視や情報伝達のために「王の目」「王の耳」と称される監察官を派遣した。このように中央集権体制を整備し、エーゲ海からインダス川におよぶ最大版図を統治したことから、アケメネス朝全盛期の王と評価される。彼の時代に新都ペルセポリスが造営されたが、政治的中心はスーサであり続けた。交通網の整備は、当時としては驚異的な速度で通信や移動を行うことを可能とし、とりわけスーサとサルデスを結ぶ「王の道」は有名である。中央集権的な統治体制を整備する一方で、帝国内の諸民族には寛容な政策をとり、交易で活躍するアラム人やフェニキア人の活動を保護した。上質な金貨・銀貨を鋳造して帝国各地への流通を図ったが、その成果は限定的であったとされる。
ベヒストゥーン碑文
彼の事跡を記したものにはベヒストゥーン碑文がある。この碑文はテンプレート:仮リンク・エラム語・アッカド語(後期バビロニア語)によって書かれているが、ベヒストゥーン碑文に記されたテンプレート:仮リンクはペルシアで制定された表音文字であった。これはイギリス人のヘンリー・ローリンソンが解読に成功し、この解読を端緒として、楔形文字(テンプレート:仮リンクやテンプレート:仮リンクなど)の解読への道が開けた。
脚注
- ↑ www.herodotuswebsite.co.uk, "A Commentary on Darius"
- ↑ カンビュセス2世の死を参照。
関連項目
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