テンプレート:サッカークラブ
デポルティーボ・アラベス(Deportivo Alavés, テンプレート:IPA-es)は、スペイン・バスク自治州の州都ビトリア=ガステイスに本拠地を置くサッカークラブ。1921年に創設され、2013-14シーズンはリーガ・エスパニョーラのセグンダ・ディビシオン(2部)に所属している。19,500人収容のエスタディオ・デ・メンディソローサをホームスタジアムとしている。青色と白色の縦縞のシャツ、青色のパンツ、白色のソックスを着用する。
歴史
創設から1980年代
1921年に創設され、8年後の1929年にリーガ・エスパニョーラ(全国選手権)が創設されるとセグンダ・ディビシオン(2部)の初代メンバーとなった。2シーズン目の1929-30シーズンにはセグンダ・ディビシオンで優勝し、プリメーラ・ディビシオン(1部)に昇格。1930-31シーズンからの3シーズンをトップリーグで過ごした。その後はセグンダ・ディビシオンやテルセーラ・ディビシオン(当時3部相当)でプレーしていたが、1953-54シーズンのセグンダ・ディビシオンで優勝して24年ぶりにプリメーラ・ディビシオンに昇格した。1950年代後半からは再び2部以下のカテゴリーで過ごし、1970-71シーズンにはディビシオネス・レヒオナレス(当時4部相当、地域リーグ)落ちも経験したが、1970年代半ばからは9シーズン連続でセグンダ・ディビシオンに在籍した。
1990年代
1992-93シーズンと1993-94シーズンにはセグンダ・ディビシオンB(1977年創設、現3部相当)で2シーズン連続優勝し、1994-95シーズンには13シーズンぶりにセグンダ・ディビシオンに在籍すると、1997-98シーズンにはマネ監督の指揮下、セグンダ・ディビシオンで優勝して42年ぶりのトップリーグに返り咲いた。1995年には、子どものサポーターが使い古したおもちゃを持ち寄ってアフリカの子どもたちに寄贈するという「小さなサンタ計画」をスタートさせ、クラブ規模で児童支援を行っている[1]。1999-2000シーズンにはFCバルセロナに対してホーム&アウェーで2連勝し、シーズンを6位で終えてクラブ史上初の欧州カップ戦出場権を獲得した。
2000年代
ルーマニア代表のコスミン・コントラやオランダ代表のジョルディ・クライフを擁し、2000-01シーズンにはUEFAカップに初出場。1回戦でガズィアンテプスポル(トルコ)を、2回戦でリールストロムSK(ノルウェー)を、3回戦でローゼンボリBK(ノルウェー)を破ると、4回戦ではインテル(イタリア)と対戦し、敵地スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァで勝利するなどして勝ち上がりを決めた。準々決勝ではラージョ・バジェカーノ(スペイン)との同国対決を制し、準決勝では1.FCカイザースラウテルン(ドイツ)に2試合合計9-1で圧勝した。決勝のリヴァプールFC(イングランド)戦は開始16分で2点を先行され、前半終了時にも1-3と劣勢だったが、ハビ・モレーノが後半早々に2得点を挙げて追いつくと、72分のロビー・ファウラーの得点で再び勝ち越されたが、試合終了間際の88分にジョルディ・クライフが4-4となる同点弾を決めて試合を延長に持ち込んだ。延長では残り5分までスコアが動かなかったが、116分にデルフィ・ヘリがゴールデンゴールとなるオウンゴールを喫して4-5で敗れた[2][3]。敗れはしたものの、この試合はUEFAカップ史上屈指の決勝に数えられている[4]。スペイン勢はベスト8に4クラブ(アラベス、FCバルセロナ、セルタ・デ・ビーゴ、ラージョ)が残り、中小クラブの躍進を印象付けた。そのシーズンのリーグ戦は10位で終えたが、2002-03シーズン終了後にセグンダ・ディビシオンに降格した。
2004年にアメリカ人のディミトリ・ピーターマンがクラブを買収して大型補強に乗り出し、2004-05シーズン終了後にプリメーラ・ディビシオンに再昇格したが、わずか1シーズンでセグンダ・ディビシオンに降格した。ピーターマン会長がクラブ資金を私的に流用していたことが発覚し、裁判沙汰になった。借金は2300万ユーロ(約30億円)を超え、2007年夏にはコンクルサル法(破産法)適用を申請した。2008-09シーズンは19位に終わり、セグンダ・ディビシオンBへ降格。4シーズンをセグンダ・ディビシオンBで過ごしたが、2012-13シーズンにセグンダ・ディビシオンBで優勝してセグンダ・ディビシオン復帰を決めた。
タイトル
国内タイトル
- 1929–1930, 1953–1954, 1997–1998
- 1992-1993, 1993-1994, 1994-1995, 2012-2013
- 1940–1941, 1960–1961, 1964–1965, 1967–1968, 1973–1974, 1989–1990
成績
過去の成績
近年の成績
シーズン |
ディビジョン |
順位 |
試合 |
勝 |
分 |
敗 |
得点 |
失点 |
勝ち点
|
国内カップ |
欧州カップ |
備考
|
1998–99
|
プリメーラ
|
16
|
38 |
11 |
7 |
20
|
36 |
63 |
40
|
|
|
|
|
1999–00
|
プリメーラ
|
6
|
38 |
17 |
10 |
11
|
41 |
37 |
61
|
|
|
|
|
2000–01
|
プリメーラ
|
10
|
38 |
14 |
7 |
17
|
58 |
59 |
49
|
|
UEFAカップ |
準優勝
|
|
2001–02
|
プリメーラ
|
7
|
38 |
17 |
3 |
18
|
41 |
44 |
54
|
|
|
|
|
2002–03
|
プリメーラ
|
19
|
38 |
8 |
11 |
19
|
38 |
68 |
35
|
|
UEFAカップ |
2回戦敗退
|
セグンダ降格
|
2003–04
|
セグンダ
|
4
|
42 |
20 |
14 |
8
|
48 |
32 |
74
|
|
|
|
|
2004–05
|
セグンダ
|
3
|
42 |
23 |
7 |
12
|
62 |
47 |
76
|
|
|
|
プリメーラ昇格
|
2005–06
|
プリメーラ
|
18
|
38 |
9 |
12 |
17
|
35 |
54 |
39
|
3回戦敗退
|
|
|
セグンダ降格
|
2006–07
|
セグンダ
|
17
|
42 |
13 |
13 |
16
|
51 |
60 |
52
|
|
|
|
|
2007–08
|
セグンダ
|
17
|
42 |
12 |
15 |
15
|
41 |
47 |
51
|
|
|
|
|
2008–09
|
セグンダ
|
19
|
42 |
11 |
10 |
21
|
42 |
64 |
43
|
2回戦敗退
|
|
|
セグンダB降格
|
2009-10
|
セグンダB
|
5
|
38 |
16 |
14 |
8
|
45 |
31 |
62
|
|
|
|
|
2010-11
|
セグンダB
|
3
|
38 |
18 |
12 |
8
|
63 |
43 |
66
|
|
|
|
セグンダ昇格プレーオフ2回戦敗退
|
2011-12
|
セグンダB
|
6
|
38 |
14 |
17 |
7
|
64 |
39 |
59
|
|
|
|
|
2012-13
|
セグンダB
|
1
|
38 |
25 |
7 |
6
|
57 |
22 |
82
|
|
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|
昇格プレーオフの末にセグンダ昇格
|
2013-14
|
セグンダ
|
|
|
|
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歴代監督
テンプレート:表2列
歴代所属選手
テンプレート:Main
GK
DF
MF
FW
傘下クラブ
デポルティーボ・アラベスB
デポルティーボ・アラベスBは1961年に創設され、テルセーラ・ディビシオン(4部相当)などに所属している。2,500人収容のエスタディオ・インスタラシオネス・デ・イバイアをホームスタジアムとしている。トップチームと同じく青色と白色の縦縞のシャツ、青色のパンツ、白色のソックスを着用する。
成績
カリフォルニア・ビクトリー
2007年、アメリカのユナイテッドサッカーリーグ1部(北米2部相当)にテンプレート:仮リンクというクラブを立ち上げた。サンフランシスコのテンプレート:仮リンクをホームスタジアムとし、本家デポルティーボ・アラベスと同色のユニフォームを着用していたが、アラベスの経営陣交代によって支援が打ち切られ、同年後半にカリフォルニア・ビクトリーは解散した。
脚注
テンプレート:Reflist
外部リンク
テンプレート:リーガ・エスパニョーラ セグンダ・ディビシオン
- ↑ No.446 アラベスの小さなサンタ サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト、2003年1月29日
- ↑ The greatest matches of all time The Daily Telegraph、2007年7月4日
- ↑ UEFAカップ伝説の決勝をマカリスター氏が回顧 UEFA.com、2011年5月16日
- ↑ 大会屈指の決勝を振り返るハマン UEFA.com、2009年5月18日