チャガン・テムル
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チャガン・テムル(Čaγan-Temür, ? - 1362年)は、元の将軍。漢字表記は察罕帖木児。河南省沈丘の人。
その家系はモンゴル化したウイグル部の出自であるが、曽祖父の代から河南に土着して久しく、廷瑞という漢語の字ももっていた。元末、河南で紅巾の乱が起こり河南も騒乱に巻き込まれると、地方名士であったチャガン・テムルは沈丘の住民数百名を集めて義勇軍を率い紅巾軍と戦った。やがて賊軍を破った功績により汝寧府のダルガチ(行政官)に取り立てられ、河南地方における軍閥に成長し始める。
紅巾軍が北方に進出すると河北に出兵してこの地方を完全に平定し、中書刑部侍郎、ついで山東の一帯を転戦して1356年には大臣級の中書兵部尚書にまでのぼった。さらに同じ頃河南の旧都開封に韓林児を奉じて入城した紅巾軍の首魁劉福通を破り、韓林児の家族をはじめとして、その捕らえるところ数万という大勝利を収めた。1359年、チャガン・テムルはついに開封を奪還する。
晩年には河南から山西の南部に勢力圏を伸ばし、北部の大同を本拠地とする軍閥ボロト・テムルと対立した。その後、再び山東に現われた賊軍の討伐に向かい、その首魁田豊、王士誠を降伏させたため、それを賞した元朝のトゴン・テムル・ハーンから中央政府の宰相格である中書平章政事を授けられた。しかし、残敵の篭る益都の町を攻略中に軍中で田豊、王士誠によるクーデターが起こり、チャガン・テムルは王士誠によって刺殺された。
チャガン・テムルの軍は甥で養子のココ・テムルがすぐさま引き継ぎ、田豊、王士誠の逃げ込んだ益都を落としてその復讐を果たした。