ズデンコ・ベルデニック
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:サッカー選手 ズデンコ・ベルデニック(テンプレート:Lang-sl、1949年5月2日 - )は、スロベニア出身のサッカー指導者。
来歴
ユーゴスラビアの各クラブの監督、スロベニア・オリンピック代表監督、スロベニアA代表監督などを歴任した後、1998年5月にオーストリアのFKアウストリア・ウィーンの監督に就任した。
しかし、多大な強化予算を与えられ、多くの代表選手を獲得したものの、チームの成績は一向に改善されず、11ヶ月後には成績不振で解任された。
その後、活動の場を日本に移す。Jリーグ下位に低迷し、3年連続残留争いをしていたジェフユナイテッド市原をディフェンス面から強化、リベロを機能させリーグ上位に顔を出すチームに改革した。この功績から名古屋グランパスエイトに引き抜かれ、名古屋ではアンドレイ・パナディッチ等を中心に守備を改善、2002年第1ステージで破竹の6連勝を飾り3位で締めくくるなど、その手腕が高く評価された。しかし、その後の第2ステージでは、13位と低迷し翌年の2003年の第1ステージでは、引き分けの試合が多く最終的に7位に終わり、第1ステージ終了後に成績不振を理由に解任された。
その後、2003年9月から2005年までの2年契約でベガルタ仙台の監督を務めたが、成績不振を理由に2004年度シーズン終了をもって解任された。
解任後はスロベニアのリュブリュナ大学で教授を務めるかたわら、新聞や雑誌などで解説者として活動し、サッカークリニックなどの活動でしばしば日本を訪れた。また、2009年から1年間スロベニア代表チームディレクターを務めた。
2010年7月よりスロベニア2部リーグに所属するNKインテルブロック・リュブリャナの監督に就任し、2位となったもののチームが昇格を拒否したことなどから退団。その後はスロベニアサッカー協会でスポーツディレクターを務めた。
2012年6月、大宮アルディージャの監督に就任[1]。8年ぶりの日本復帰となった。就任後は第24節から最終節まで11試合連続無敗を記録するなど、就任時点で15位に低迷していた大宮のJ1残留を果たした。
2013年も大宮の監督を務め、第1節から第10節まで無敗。前年と合わせて21試合連続無敗のJリーグ新記録を樹立した。その後、第16節から第20節まで5連敗を喫すると、第20節の翌日の8月11日に監督を解任された[2]。
指導歴
- 1979年 - 1980年、1980年-1981年 テンプレート:Flagicon NKルドール・トルドゥリエ
- 1985年 - 1987年 テンプレート:Flagicon NKオリンピア・リュブリャナ[1]
- 1991年 - 1993年 テンプレート:Flagicon 横浜フリューゲルス コーチ[1]
- 1993年 - 1994年 テンプレート:Fb 監督[1]
- 1994年 - 1997年 テンプレート:Fb 監督[1]
- 1998年 - 1999年 テンプレート:Flagicon FKアウストリア・ウィーン 監督[1]
- 2000年8月 - 2001年 テンプレート:Flagicon ジェフユナイテッド市原 監督[1]
- 2002年 - 2003年8月 テンプレート:Flagicon 名古屋グランパスエイト 監督[1]
- 2003年9月 - 2004年11月 テンプレート:Flagicon ベガルタ仙台 監督[1]
- 2009年 - 2010年6月 テンプレート:Fb チームディレクター[1]
- 2010年7月 - 2011年6月 テンプレート:Flagicon NKインテルブロック・リュブリャナ 監督[1]
- 2011年6月 - 2012年6月 テンプレート:Flagicon スロベニアサッカー協会 スポーツディレクター[1]
- 2012年6月 - 2013年8月 テンプレート:Flagicon 大宮アルディージャ 監督[1]
監督成績
年度 | 所属リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝 | 分 | 敗 | 勝点 | 順位 | チーム |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000 | J1 | 2nd | 15 | 3 | 1 | 11 | 9 | 16位 | ジェフユナイテッド市原 |
2001 | 1st | 15 | 10 | 0 | 5 | 27 | 2位 | ||
2nd | 15 | 7 | 2 | 6 | 23 | 5位 | |||
2002 | 1st | 15 | 10 | 0 | 5 | 27 | 3位 | 名古屋グランパスエイト | |
2nd | 15 | 5 | 1 | 9 | 16 | 13位 | |||
2003 | 1st | 15 | 5 | 8 | 2 | 23 | 7位 | ||
2nd | 15 | 2 | 6 | 7 | 12 | 15位 | ベガルタ仙台 | ||
2004 | J2 | - | 44 | 15 | 14 | 15 | 59 | 6位 | |
2012 | J1 | - | 21 | 7 | 8 | 6 | 29 | 13位 | 大宮アルディージャ |
2013 | - | 20 | 11 | 3 | 6 | 36 | 4位 |
- 2012年は第14節から指揮。
- 2013年は第20節終了後に途中退任。
評価
- テンプレート:要出典範囲
- スロベニア代表チームはベルデニック退任後のUEFA EURO 2000に出場、2002 FIFAワールドカップにも出場を果たした。テンプレート:要出典範囲
- DFの基本は3バックである。日本では、大宮以外率いた全てのチームで3バックの布陣を引いた。中でもアーセン・ベンゲル以来の4バックを守り続けてきた名古屋にとっては、この変更は画期的な出来事であった。名古屋の監督時代に、テレビの取材で何故自分が3バックで戦うのかを理論的に説明していたこともある。
- 日本で率いた市原、名古屋、仙台、そして大宮でも最終的には「解任」という形でチームを離れている。名古屋、仙台では成績不振がその理由であるが、市原では名古屋への電撃的な移籍(後述)が、チームの方向性を著しく踏みにじったとして解任された。そのため名古屋や仙台ではベルデニック解任に対して少なくないフロントへの批判があったが、市原ではフロントへの批判は全くなかった。
- テンプレート:要出典範囲
- 後に市原の監督に就任したイビチャ・オシムとは旧知の仲で、日本に来てからも常に連絡をとっていた。オシムの回想によれば市原との初の接触は、ベルデニックからオシムの電話番号を教えてもらった祖母井秀隆GMからの電話だったという。また、祖母井が大阪体育大学のコーチだった時代に、ベルデニックを尋ねた際にオシムを紹介され、練習を見学していた。
エピソード
- テンプレート:要出典範囲
- 手倉森誠によると、東日本大震災の時にベルデニックはいち早く個人で義援金を送っていたという[3]。