ジョン・ウィクリフ
ジョン・ウィクリフ(John Wycliffe, 1320年頃 - 1384年12月31日)は、イングランドのヨークシャーに生まれた、宗教改革の先駆者とされる人物である。
オックスフォード大学の教授であり、聖職者であったウィクリフは、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れている、ミサに於いてパンとワインがキリストの本物の肉と血に変じるという説(化体説)は誤りである等、当時イングランドにおいて絶対的権力を持っていたローマ・カトリックを真っ向から批判した。イングランド国王が英語の聖書を持たないのに、ボヘミア出身のアン王妃がチェコ語の聖書を所有していることに矛盾を感じていた彼は、晩年になってから、彼がかつて司祭をしていたラタワースに戻り、聖書を英語に翻訳した。信徒の霊的糧である聖書とそれに基礎を置く説教を重要視し、翻訳した聖書を持った牧者たちを地方に派遣した。ウィクリフの思想はボヘミアのヤン・フス、また100年後の宗教改革にも大きな影響を与えた。
ウィクリフが訳した聖書の序文には、エイブラハム・リンカーンが引用した有名な言葉
- This Bible is for the government of the people, by the people, and for the people.
- 「この聖書は人民の、人民による、人民のための統治に資するものである」
があると言われることがあるが、実際にはウィクリフ聖書の序文にこの言葉は確認できない。[1]
ウィクリフの最後の日々の著書の業績は、彼の学識の絶頂とも言えるものである。ウィクリフの最後の著書「反キリスト」は未完となった。
1384年12月28日の幼児虐殺の日の礼拝に出ている時、脳卒中が再発し、年の終わりに死去した。その後、ヨーロッパでフス派が広まった。
ウィクリフは死後30年ほど後、1414年のコンスタンツ公会議で異端と宣告され、遺体は掘り起こされ、著書と共に焼かれることが宣言された。これは、12年後にローマ教皇マルティヌス5世の命により実行された。ウィクリフの墓は暴かれ、遺体は燃やされて川に投じられた。
1401年の反ウィクリフ派法は、ウィクリフの名誉を汚し、ウィクリフに共鳴する者を迫害することを定めた。1408年には、ウィクリフの著書および聖書を英訳して読むことは死に値する異端の罪であるとした。
主な著書
- 聖界領主論
- 俗界領主論
- 聖体論
- en:Wyclif's Bible
- 宗教改革著作集 第1巻 宗教改革の先駆者たち (出村彰訳 教文館 2001年7月)
日本語文献
- ウィクリフ (A.ケニー 木ノ脇悦郎訳 教文館 1996年9月 コンパクト評伝シリーズ)
- ウィクリフ 宗教改革の曉の星 (E.ロバートソン 土屋澄男訳 新教出版社 2004年12月)