ジェームズ・フォレスタル

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テンプレート:Infobox US Cabinet official ジェームズ・ヴィンセント・フォレスタルJames Vincent Forrestal, 1892年2月15日 - 1949年5月22日)は、第47代アメリカ合衆国海軍長官および初代アメリカ合衆国国防長官

航空母艦を中心とした空母機動部隊構想の支持者として知られる。しかし、陸軍から陸軍航空軍を分離する形で新しく創設された空軍空軍省は、地上基地から作戦を遂行できると主張し、彼の空母機動部隊計画に反対した。空軍との対立は彼を神経衰弱(鬱病)に追い込み、最終的に自殺に繋がった。彼の死後、空母機動部隊の有効性は朝鮮戦争に於いて実証された。アメリカ海軍の最初の超大型空母フォレスタル (USS Forrestal, CVA-59) は彼にちなんで命名された。

生い立ちと経歴

フォレスタルはニューヨーク州マッティーワン、現在のビーコンでアイルランド系カトリックの両親のもとで、三人息子の末っ子として生まれた。高校卒業後に彼は新聞社で三年間働き、1911年にダートマス大学に入学し1年後にプリンストン大学に移籍した。学費が続かず、大学中退後に彼は商売を始めたが、第一次世界大戦勃発後、彼は海軍に入隊し飛行士(Naval Aviator)になった。ワシントン(海軍省)勤務もあり、中尉で終戦をむかえる。戦後フォレスタルは債券のセールスマンとして、ウォ-ル街の投資会社ウィリアム・A・リード・アンド・カンパニーで勤務し、1938年には同社の社長に就任した。

政府での職務

フランクリン・ルーズベルト大統領は1940年6月にフォレスタルに特別補佐官への就任を依頼し、8月には彼を海軍次官に任命した。フォレスタルは海軍次官として戦時工業生産の動員に関し非常に貢献した。フォレスタルは心臓発作で死去したウィリアム・フランクリン・ノックスの後任として1944年5月19日に海軍長官に就任し、終戦の年から戦時動員の解除まで海軍を率いた。

フォレスタルは国防機関の統合に反対した、しかし1947年の国家安全保障法によって国家軍政省(1949年8月に国防総省となる。)が創設され、前陸軍長官のロバート・ポーター・パターソンが個人的理由から辞退したことによって、皮肉にも統合反対論者のフォレスタルが、初代国防長官に就任した。

彼の国家軍政省での18か月はアメリカの国防体制に於いて例外的に困難な時期であった。共産主義者がチェコスロバキア中華人民共和国で政権を握り、西ベルリンが封鎖されベルリン空輸が行われた。イスラエル独立宣言第一次中東戦争をもたらし、ヨーロッパでは北大西洋条約機構の創設のための交渉が行われた。フォレスタルの運営も極度の軍部間の対立で妨げられた。

フォレスタルはアラブ諸国と対立することは得策ではないとして、パレスチナ分割に対して否定的な態度をとり連邦制を主張したが、これに対してナチスの迫害を受けたユダヤ人を支援することは人道的義務であると考えるジャーナリズムや政府内外の要人から激しい批判を受けた。

また、かつてフォレスタルが海軍長官として海軍を代表し、空軍独立を含む軍再編成計画に対する反対派の中心となった過去や、海軍の空母と空軍の戦略爆撃機のいずれを重視するかという路線対立により[1]、空軍は国防長官のフォレスタルに対して非協力的態度をとった。しかし、かつてのフォレスタル自身を含む国防機関統合反対勢力の主張を受けて国防長官の権限が弱く設定されていたため、フォレスタル国防長官が空軍をコントロールすることは困難であった。

同時期、フォレスタルは国防費の抑制を主張するハリー・S・トルーマン大統領と、それに反対する軍部の板挟みになり苦しんだ。フォレスタル自身は、ソ連の脅威に備えるべく国防費削減に反対する立場であったが、上記の理由により軍部をコントロールすることが出来ず、問題を事実上大統領に丸投げしてしまう。元々の几帳面な性格にこうした問題による激しい心労が降りかかり、フォレスタルは鬱病となり、精神を病んでいく(フォレスタルの死後、国防長官の権限は強化される)。

フォレスタルの死

フォレスタルは1949年3月28日に「神経衰弱」により辞職し、鬱病と診断されベセスダ海軍病院に入院した。

5月22日、彼の遺体が3階の屋根の上で発見された。彼は16階の病室に入院していたが、窓から飛び降りて自殺したと判断された。彼の神経症と病院の過失に関する公式報告書はその死の詳細な状況に対する疑念を抱かせ、ソ連の工作員による殺害からUFOの関係まで様々な陰謀説がささやかれることとなった。

フォレスタルは生前、イスラエル工作員が自分を尾行していると主張していた。その後、アメリカとアラブ国家が秘密協定を結ぶことを心配したイスラエルが、実際に工作員を派遣しフォレスタルの行動を観察していたことが明らかになった。

彼の遺書ソポクレスの悲劇『アイアース』からの抜粋であった。

Frenzy hath seized thy dearest son,
Who from thy shores in glory came
The first in valor and in fame;
Thy deeds that he hath done
Seem hostile all to hostile eyes...
Better to die, and sleep
The never waking sleep, than linger on,
And dare to live, when the soul's life is gone.

文献

自著

  • The Forrestal Diaries, edited by Walter Millis, (Viking Press, 1951).
死後、3000ページ超の内容を500ページほどに編集し、出版された日記。現在日記の原本はプリンストン大学に所蔵されており、全ページをマイクロフィルム化したもの(Diaries of James V. Forrestal, 1944-1949, Secretary of the Navy, 1944-1947, and First Secretary of Defence, 1947-1949, Adam Matthew Publications ,2002)も出版されている。

伝記

  • Jeffery M. Dorwart, Eberstadt and Forrestal: a National Security Partnership, 1909-1949 (Texas A & M University Press, 1991).
  • Townsend Hoopes & Douglas Brinkley, Driven Patriot: The Life and Times of James Forrestal (Knopf, 1992).
  • 村田晃嗣『米国初代国防長官フォレスタル――冷戦の闘士はなぜ自殺したのか』(中央公論新社[中公新書]、1999年) ISBN 4121014863

参照

  1. この路線対立はフォレスタルの退任後、次のジョンソン国防長官の代になって、空母「ユナイテッド・ステーツ」と長距離戦略重爆撃機・B-36の予算獲得競争も重なり、海軍側の高官たちを文官・軍人とも大勢巻き込んだ「提督たちの反乱」というスキャンダルとして極限に達することになる。

外部リンク

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新設 |style="width:40%; text-align:center"|アメリカ合衆国海軍次官
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ウィリアム・フランクリン・ノックス |style="width:40%; text-align:center"|アメリカ合衆国海軍長官
1944年5月19日 - 1947年9月17日 |style="width:30%"|次代:
ジョン・ローレンス・サリヴァン
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