シベリア (菓子)
シベリアとは、羊羹(ようかん)または小豆の餡子をカステラで挟んだ菓子である。「シベリヤ」と表記される場合もある。また、「羊羹カステラ」と称して販売している製造者もある。
概要
羊羹や小豆餡はサンドイッチのように、スライスしてカステラに挟み込んでいるのではなく、トレーにカステラを敷いてから融けた状態で流し込み、さらにその上にカステラを被せるので、カステラと具材が密着している。自前でカステラを製造したり、小豆、寒天を煮て、羊羹を作るところから始めなければならず、製造に手間がかかる。
このカステラで挟んでいる部分は、ゲル状の餡子であったり、寒天で固めた羊羹そのものであったりし、製法に関しては菓子店によってまちまちである。羊羹の色も、茶色、緑色、赤色などの違いがあり、カステラの層数も2層、3層、4層などの違いがある。食品分類上も「洋生菓子」だったり「和生菓子」もしくは「洋菓子」、「和菓子」だったりするなど、これも製造元や成分により多様である。
首都圏を中心とした東日本と中部地方では広まっているが、逆に近畿地方を中心とした西日本や九州では、あまりなじみがない。まれに地方菓子として中部地方で作られたものが販売されている程度で、カットのサイズも一口で食べられる小さいものが多い。写真のように四角くカットされるものもあれば、サンドウィッチのように直角三角形にカットされるものもある。現在では山崎製パン等大手製パン会社からも販売されており、全国的に広がっているが、出荷は東日本に偏る傾向がある。
歴史
冷蔵庫の普及していない時代、ひんやりとした食感と涼しげな名前が好まれ、昭和初期には「子供達が食べたいお菓子No.1」であったと伝えられているが、発祥地から考案者、名称由来、食品分類に至るまで未だ正式な解明がなされていない。ただ、かなり古い歴史があるようで、1916年創業の横浜のコテイベーカリーによれば、誕生は明治後半から大正初期頃で、当時はどこのパン屋でも製造していたとの記録がある。[1]
古川ロッパの著書、『ロッパの悲食記』の一節、『甘話休題』(「閑話休題」のもじり)には、ロッパが、旧制早稲田中学に在籍していた頃、“殆ど毎日通った”「ミルクホール」(喫茶店の前身)の思い出話が書かれている。それによれば、“ミルクホールの硝子器に入っているケーキは、シベリヤと称する、カステラの間に白い羊羹を挿んだ、三角形のもの。(黒い羊羹のもあった)……”とある。大正時代のことである。
また、農文協刊の『聞き書 東京の食事』には、シベリアとミルクコーヒーのカラー写真が掲載され、本文、『日本橋人形町ハイカラ女学生の四季と食べもの』では、1930年頃の話として、「ミルクホールで、ミルクコーヒーを飲みながらシベリアを食べるのが好きだ」とあり、こちらでは、“シベリアはカステラにあんこをはさんだものである”との記述がある。いつどこの店が最初に売り出したかはともかく、東京や横浜といった関東の都市部で、かなり早くから食べられていたようである。
シベリアを考案した人物は不明であり、関東以外の地方や外国にも同種の菓子の存在は認められない。もちろん、東アジアで多用される小豆の餡子を使っているため、ロシアのシベリア地方が発祥ではないことは明らかである。名称の由来に関しては諸説あるが、特によく聞かれる説は、羊羹をシベリアの永久凍土に見立てたという説、カステラの部分を氷原に、羊羹の部分をシベリア鉄道の線路に見立てたという説、シベリア出兵にちなんだものだからという説、日露戦争に従軍していた菓子職人が考案した説等である。
一説には、愛媛県松山市のタルトを庶民化させたもの、ともいわれている。タルトにより近いものとして、羊羹カステラと呼ばれるものの中には、巻き寿司のように中心に羊羹を巻いたものもある。
食生活の水準が高くなるにつれ、相対的に質素な菓子と認識されるようになり、次第に消費が落ち込んでいたが、アニメーション映画『風立ちぬ』の劇中に登場したことにより、再び人気が高まっている[1]。
関連項目
- カステラ
- 羊羹
- タルト (郷土菓子)
- ロシアケーキ - ビスケット生地やクッキー生地にジャムやチョコレートを載せた洋菓子の一種
- 合わせ羊羹-熊本県天草市(旧牛深市)の郷土菓子
- 風立ちぬ (2013年の映画) - 作中に登場
脚注
外部リンク
テンプレート:Food-stub- ↑ 懐かしの菓子「シベリア」人気 映画「風立ちぬ」に登場 日本経済新聞・共同通信(2013/9/7 18:57)