サッポー

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ファイル:Sappho-drawing.jpg
サッポー
(ロマン主義的なイメージで描かれたもの)(1883年の作品)
ファイル:Bust Sappho Musei Capitolini MC1164.jpg
サッポーの胸像だと推定されているもので、手前に「エレソスのサッポー」と書かれている。古代ギリシャの像を古代ローマ時代に模刻したもの。(紀元前5世紀初期)

サッポー古代ギリシア語アッティカ方言テンプレート:Enlink: Σαπφώ / Sapphō紀元前7世紀末 – 紀元前6世紀初)は、古代ギリシアの女性詩人である。

出身地レスボス島で用いられたアイオリス方言テンプレート:EnlinkではプサッポーΨάπφω / Psappho)と呼ばれる。名は「サッフォー」(テンプレート:Lang-en-short)とも表記される。

生涯

サッポーは生前から詩人として著名であり、シケリア島シュラクサイに亡命の時期に彫像が立てられたという。またプラトンはサッポーの詩を高く評価し、彼女を「十番目のムーサ」とも呼んでいる。

歴史学(パピルス)上ではっきりしているのは、サッポーは紀元前596年にシケリア島に亡命し、その後、レスボス島に帰国した事実のみである。 サッポーの生涯は伝説の域を出ず、歴史学的に(パピルス文献学上)不明で、一説に拠ると「サッポー(の夫)(推定名「ケルキューラース」)は富裕な商人で、サッポーは夫とともに各地に頻に旅行した...」ともあるが、アルカイオスとの友愛(残存詩片から確認)は存続し、仮令「男友」は多けれども、一度夫と「結婚」し、一女クレイスを生み、かなり早い時期に夫と死別、その後は寡婦を徹したとの説がその才媛の勝気な詩作からの類推に拠り有力視されている。また、サッポーはアルカイオスと異なり、政治には自身の詩作上において関わず、主観の方向は内的情熱に傾倒し、亡命の際以外、政治への関与は避けた。

またサッポーはある種の学校を作り、若い娘たちを生徒として、文芸・音楽・舞踊を始めとする教育を行った。サッポーの詩のうちの一部は、その生徒のために書かれたものである。

[1]

作風

サッポーの作品には5脚の3行と2脚の1行からなる四行詩が多く、この形式はサッポー詩体として知られる。またその詩の内容は好んで恋愛を主題とする。古来サッポーの作として著名なものに「アプロディテへの讃歌」がある。

評価

恋愛詩人としてのサッポーは古代ローマ時代にもよく知られ、オウィディウスは抒情詩「愛について」の中で「いまやサッポーの名はあらゆる国々に知られている」(Ars Amatoria, 第28行)と述べている。

その一方で後世にはサッポーの作品は頽廃的であるとみなされ、さまざまな非難を浴びた。すでにローマ時代にもサッポーは非難の的となっていたが、キリスト教の隆盛とともに、サッポーの詩は異教的頽廃の代名詞ともされ、多くの作品が失われた。非難の中にはサッポーを貶めるため、サッポーを同性愛者とするものもあった。そのためSapphic (サッポー風の)は女性同性愛者を、Sapphismは女性同性愛を示すのにも用いられている。今日、女性同性愛者を呼ぶ一般的な呼称である「レスビアン」もサッポーがレスボス島出身であることに由来し(ちなみにレスボス人は英語でlesbianと表記されるが、これはレズビアンと同じつづりである)、その誤解(曲解)から、同島の現代の一般名称はミティリーニ島の名称に好んで替えられて呼ばれている。

日本語文献

脚注

  1. 注 - サッポーの最後については、遡ればメナンドロス(紀元前342-292)あたりから、渡し守に恋をしてルーカディアの崖から飛び降りたのだろう、などと語られてきたが、これは現代の学者からは、歴史的な事実ではないと見なされており、おそらく喜劇詩人がつくりだしたお話か、あるいはサッポーの非自伝的な詩を彼女自身の話として誤読してしまったことが原因で作り出されたお話だろうと推測されている(Joel Lidov, "Sappho, Herodotus and the Hetaira", in Classical Philology, July 2002, pp.203–237. pp.205-206)。

関連項目

外部リンク

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