ザ・ゴールデン・カップス
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テンプレート:Infobox Musician ザ・ゴールデン・カップス(The Golden Cups)は1966年12月、神奈川県横浜市でデイヴ平尾を中心に結成されたグループ・サウンズ。
目次
メンバー
結成当初のメンバーは以下のとおり。脱退後、解散後の目立った活動は()内に。
- 本名:平尾時宗。リーダー、ボーカル。
- 通称:時坊(トキボウ)。
- 本名:潘廣源(人名事典では潘の字で記載)。ギター、ボーカル。
- 本名:三枝守。ドラムス、ボーカルだったが、再結成後はボーカルに専念することが多い。
その後、以下のメンバーが途中時期に在籍した。
- ベース、藩が脱退後に加部と交代。
- 本名:柳譲治。ベース、ボーカル(ソロでヒットを出し成功)。
- キーボード。現在ホノルルで牧師として活動中(アロハ・バイブル・チャーチ)。
来歴
デビュー以前
- 1965年頃、既に横浜ではいくつものアマチュアバンドが結成されており、ダンスパーティーやイベントなどに活動の場を求めていた。平尾もそうしたアマチュアのひとりで、「スフィンクス」というバンドでボーカルを担当していた。「スフィンクス」と藩がギターを担当していた「ファナティックス」はともにアマチュアながら、当時の横浜を代表するバンドであり、東京から音楽関係者が足を運んで演奏を聴きに来たり、「ファナティックス」は芸能プロからのスカウトを受けていた。
- 1966年7月3日、平尾は単独でアメリカ旅行に出発する。昼間はレコード店巡り、夜はライブを見に行くという毎日だったようである。ほぼ同時期に藩も彼の父親に「旅行から帰ったら音楽を止めてコックになる」という約束で渡米していた。実際に藩は音楽シーンの見聞を広めることと、新しい楽器を買うためにアメリカへ行ったが、たまたま行っていたサンフランシスコのゼムのライブ会場で平尾と偶然に再会する。
- 1966年11月、平尾が帰国。高校時代の友人とバー「ゴールデン・カップ」を訪れた際、オーナーの上西四郎から「この店の専属バンドを探している」といわれる。こうして、スフィンクスはゴールデン・カップのステージに立ったのだが、当時最先端の音楽を生で触れてきたばかりの平尾には、バックの演奏が物足りなく感じた。そこで平尾は「人前に立つなら腕利きのメンバーを集めよう」と考え、アメリカで再会した藩を誘い、藩は伊東を誘った。当初はベースに伊東、ドラムスにジョニー野村を据える予定だったが、野村は既にプロモーターを志して国際基督教大学に進学していた(その後、野村はゴダイゴのマネージャーとなる)ため、平尾の渡米中にスフィンクスのヴォーカルを担当していたマモルがドラムスを担当し、マモルが同じ高校の先輩であった加部を誘った。
- 1966年12月3日、上記5人のメンバーで「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」としての活動をスタートさせる。
- 1966年12月10日、ゴールデン・カップに来店していた「ナポレオン党」(カミナリ族、現在でいう暴走族のはしり)を取材していたTBSの撮影スタッフの目にとまり、『ヤング720』でテレビ初出演をする。
デビュー以降
- 1967年6月15日、テレビ出演をきっかけとして口コミで評判が広がり、妹から話を聞いていた歌手の黛ジュンが、東芝音楽工業(東芝レコード、現:EMIミュージック・ジャパン)の関係者をゴールデン・カップに連れてきたことを足掛かりに、シングル『いとしのジザベル』でレコードデビュー、デビューに際し、グループ・アンド・アイでは分かりにくいためTBS『ヤング720』の担当ディレクターである高樋洋子によって「ゴールデン・カップス」へと改名された、[1]因みに同シングルは公称18万枚のヒットを記録。なお、ザ・スパイダースのリーダー、田邊昭知も熱心にスカウトに来たが、黛ジュンとの話が先だったため、田邊昭知のスカウトは断った。また、彼らを混血グループという触れ込みで売り出しを図ったのは、当時の東芝音楽工業の意向だとされている。
- 1967年7月21日、東京のジャズ喫茶(ラ・セーヌ)に初出演。
- 1967年8月26日、第31回日劇ウエスタンカーニバルに初出場。新人賞を獲得する。
- 1968年3月10日、1stアルバム『ザ・ゴールデン・カップス・アルバム』を発売。
- 1968年4月1日、3rdシングル『長い髪の少女』が発売。オリコン14位、35万枚のセールスを記録し、一躍人気グループの仲間入りをする。
- 1968年7月8日、ビザの関係で伊東が一時活動休止(軍属であった父親が退職を決意したため)。吉野が加入。
- 1968年9月1日、4thシングル『愛する君に』が発売され、オリコン13位となる。
- 1968年10月21日、伊東が復帰。
- 1969年4月25日、藩と伊東がエディ藩グループ結成のため脱退。林がベースとして加入し、加部がギターにコンバートする。
- 1969年12月28日、加入前の山崎とルームというバンドを結成するため、加部と林が脱退し、マモルも作曲家の鈴木邦彦に熱望され、ソロ歌手になるため脱退する。
- 1970年1月1日、エディ藩グループと合併し、藩と伊東が復帰、マモルの後任には、同年9月に解散したザ・カーナビーツのドラマー兼ボーカルであり、エディ藩グループのドラムスであった高野が加入(高野には、マモルが使っていたパールのドラムセットが譲られた)。
- 1970年8月31日、父親がカウアイ島で経営していたサーフボード店の後を継ぐため、伊東が完全に去る。
- 1970年9月1日、柳が加入。
- 1971年1月、吉野が脱退。以降、山崎加入までは4人編成で活動を継続。
- 1971年7月3日、山崎が加入。
- 1972年1月1日、ゴールデン・カップスとして最後の仕事となる沖縄のディスコティックでの演奏最終日、最後の曲となる『長い髪の少女』を演奏中、会場内で火災が発生し、柳のベース以外は機材をすべて焼失。
- 1972年1月2日、解散。
解散後
- 1972年10月5日、平尾が初のソロシングル『僕達の夜明け/一人』を発売。
- 1973年12月頃、同年春ころから断続的に活動を続けてきた「ママリンゴ」というバンド(メンバーは平尾、加部、柳)が、「デイブ平尾とゴールデン・カップス」名義で活動を開始。
- 1975年頃、平尾が俳優業を本格化させたため、、「デイブ平尾とゴールデン・カップス」を解散。
- 1981年12月5日、横浜シェルガーデンで行われたライブ『ゴールデン・カップス・ワンナイト・セッション』で当日のみの再結成(メンバーは、平尾、藩、加部、吉野、高野)。
- 1982年、平尾が六本木にライブ・バー「ゴールデン・カップ」をオープン。
- 1989年4月5日、大阪城ホールでのライブ『タイガース・メモリアル・クラブ・バンド』にて、当日のみの再結成(メンバーは平尾、マモル、吉野、高野)。
- 1989年6月10日、横浜アリーナでのライブ『タイガース・メモリアル・クラブ・バンド』にて、当日のみの再結成(メンバーは平尾、藩、マモル、加部、吉野、高野)。
- 1997年3月2日、伊東が死去。
- 2002年12月、本格的な再結成と映画『ワンモアタイム』の製作が決定。
- 2003年5月4日、5月6日、横浜・club Matrixにて映画撮影用ライブ『THE GOLDEN CUPS MAXIMUM R&B LIVE 2003』を行う。メンバーは平尾、藩、加部、マモル、吉野の5人に、サポートメンバー3名(ドラムス:樋口晶之、ベース:スティーブ・フォックス、ギター:中村裕介)。
- 2003年8月9日、NHK『思い出のメロディー』に出演。
- 2004年7月24日、横浜赤レンガ倉庫にて、映画完成ライブイヴェント『ONE MORE TIME LIVE SESSION 2004』を行う。
- 2004年7月25日、横浜赤レンガ倉庫にて、映画『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』先行完成披露上映会を行う。
- 2004年10月10日、渋谷公会堂にて『THE GOLDEN CUPS MAXIMUM R&B LIVE 2004』を行う。
- 2004年11月20日、映画『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』が一般公開される。
- 2006年4月1日、急性心不全で高野が死去。
- 2008年11月10日、食道がん療養中に心不全で平尾が死去。
- 2008年11月28日、『デイブ平尾追悼ライブ(当初は『THE GOLDEN CUPS×G.S. SUPER UNIT LIVE SPECIAL 2008』で実施予定)』を行う。
- 2009年1月26日、神奈川県横浜市のライヴハウス「タイクーン」にて、『THE GOLDEN CUPS PRESENTS 追悼 デイヴ平尾 トリビュートパーティー』が行われ、メンバーはもちろん、 旧知のCHIBOや陳信輝、CHARやジョニー吉長、金子マリ、石間秀機、篠原信彦などに加え、沢田研二、岸部一徳も参加して、平尾と伊東を偲んだ。
- 2009年11月10日、横浜BLITZにて『THE GOLDEN CUPS 横浜公演 2009』を行う。残った4人とサポートメンバー(樋口とスティーブ)に加え、ベースで林が数曲参加する。
- 2011年10月10日、腎不全で柳が死去。
メンバーの変遷
年 | ボーカル |
ギター | ベース | ドラムス | キーボード |
---|---|---|---|---|---|
1966年12月3日 - 1968年7月7日 | デイヴ平尾 | エディ藩 ケネス伊東 |
ルイズルイス加部 | マモル・マヌー | |
1968年7月8日 - 1968年10月20日 | エディ藩 | ミッキー吉野 | |||
1968年10月20日 - 1969年4月25日 | エディ藩 ケネス伊東 | ||||
1969年4月26日 - 1969年12月31日 | ルイズルイス加部 | 林恵文 | |||
1970年1月1日 - 1970年8月31日 | エディ藩 | ケネス伊東 | アイ高野 | ||
1970年9月1日 - 1971年1月 | 柳ジョージ | ||||
1971年1月 - 1971年7月2日 | |||||
1971年7月3日 - 1972年1月2日 | ジョン山崎 | ||||
1972年1月3日 - 1973年12月 | 解散中 | ||||
1973年12月 - 1975年 | デイヴ平尾 | ルイズルイス加部 | 柳ジョージ | ||
1975年 - 1981年12月4日 | 活動停止 | ||||
1981年12月5日 | デイヴ平尾 | エディ藩 | ルイズルイス加部 | アイ高野 | ミッキー吉野 |
1981年12月6日 - 1989年4月4日 | 活動停止 | ||||
1989年4月5日 | デイヴ平尾 マモル・マヌー |
アイ高野 | ミッキー吉野 | ||
1989年4月6日 - 1989年6月9日 | 活動停止 | ||||
1989年6月10日 | デイヴ平尾 マモル・マヌー |
エディ藩 | ルイズルイス加部 | アイ高野 | ミッキー吉野 |
1989年6月11日 - 2003年5月3日 | 活動停止 | ||||
2003年5月4日 - 2008年11月10日 | デイヴ平尾 マモル・マヌー |
エディ藩 ルイズルイス加部 |
ルイズルイス加部 | ミッキー吉野 | |
2008年11月11日 - | マモル・マヌー |
特徴
結成から解散に至るまで、オリジナルのヒット曲はあったが、ステージ上ではこれらの曲を演奏することを好まず(ただし、平尾のサービス心もあり全く演奏しなかったわけではなかった)、もっぱら当時のアメリカやイギリスで流行していたロックやリズム・アンド・ブルースのカバーを行っていた。
ディスコグラフィー
シングル
- いとしのジザベル/陽はまた昇る(1967年6月15日)
- 銀色のグラス/ドゥー・ユー・ノー・アイ・ラヴ・ユー(1967年11月15日)
- 長い髪の少女/ジス・バッド・ガール(1968年4月1日)
- 愛する君に/クールな恋(1968年9月1日)
- 過ぎ去りし恋/午前3時のハプニング(1968年12月5日)
- 本牧ブルース/4グラムの砂(1969年2月1日)
- ルシール/君は僕に首ったけ〜悲しき叫び(1969年5月1日)
- 蝶は飛ばない/もう一度人生を(1969年7月10日)
- にがい涙/悪魔にだまされた(1970年5月5日)
- 人生は気まぐれ/たったいちどの青春(1971年11月5日)
アルバム
- ザ・ゴールデン・カップス・アルバム(1968年3月10日)
- ザ・ゴールデン・カップス・アルバム第2集(1968年9月10日)
- ブルース・メッセージ/ザ・ゴールデン・カップス・アルバム第3集(1969年3月10日)
- スーパー・ライヴ・セッション(1969年8月1日)
- ザ・ゴールデン・カップスのすべて(1969年8月1日)
- ザ・ゴールデン・カップス・リサイタル(1969年10月10日)
- 長い髪の少女/ゴールデン・カップスのすべて(1969年11月10日)
- ザ・フィフス・ジェネレーション ザ・ゴールデン・カップス・アルバム8(1971年1月10日)
- ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス(1971年10月5日)
- BLUES OF LIFE(2004年11月10日)
- ワンモアタイム(2004年11月17日)
- ロックンロール・ジャム'70(1970年4月5日・4バンドによるライブアルバム)
出演映画
- ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム(2004年11月20日)
関連項目
脚注
外部リンク
テンプレート:10大グループ・サウンズテンプレート:Asbox- ↑ 熱狂GS図鑑 黒沢進著 徳間書店 1986年1月刊 19頁。