ゴラン高原

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ゴラン高原(ヘルモン山付近、1978年)。ドルーズ派住民の入植村の遠景。
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ゴラン高原の青文字はイスラエルの入植地。黒文字はドルーズ人およびチェルケス人の居住地。

ゴラン高原(ゴランこうげん テンプレート:Lang-heテンプレート:Lang-en, テンプレート:Lang-ar)は、イスラエルレバノンヨルダンおよびシリアの国境が接する高原である。以前はシリア高原と呼称されていた。

シリアおよび国際連合は同高原をアル・クナイティラの施政区域(クネイトラ県)の一部であると考える。シリアの砲台のある土地であったために、イスラエルは第三次中東戦争以降同地の占拠を続け、「ゴラン高原」の用語の使用に反対を示している。

帰属問題

イスラエル国防軍1967年から1981年まで占領して軍政下に置き、後にクネセトによってゴラン高原法に基づく民政下に置かれた。イスラエルを除く当事国、および国連のどちらもこれを認めていない。国連安全保障理事会が決議497「イスラエルの併合は国際法に対して無効である」旨を採択し、同地がイスラエルによって不当に併合されたシリア領であるという見解が固定化した。しかし、イスラエル政府は「併合」であると認めていない。

1981年の法律でイスラエルは第三次中東戦争以降同地に留まるシリア人にイスラエルの市民権を与えた。一部のユダヤ人およびシオニスト組織はゴラン高原を自由なユダヤ人の土地であるとしているが、この見解は現在のイスラエル政府の見解とは反し、また国際的にほとんど支持されていない。

シリアとイスラエルは現在もゴラン高原の領有権を争っているが、第四次中東戦争停戦後の1974年以来、武力行使を行っていない。ゴラン高原の戦略的および水源地としての大きな価値は、両国の交渉が不確かであることを意味している。

国際連合のPKO国連兵力引き離し監視隊(the United Nations Disengagement Observer Force, UNDOF)は1974年に設立され、停戦合意の実施を監視し、地域の現状を維持している。現在1,000名を越える国連平和維持部隊が平和の維持に従事している。 日本1996年から自衛隊を派遣していたが、情勢の悪化に伴い2013年に撤退している。自衛隊ゴラン高原派遣も参照。

さらに、レバノンヘルモン山の領域にあるドヴ山のシェバ農場として知られる地域の割譲を要求しており、シリアの公式見解は農場はレバノン領であるとしている。しかしながら、レバノンからイスラエル軍の撤退を確認するために2000年に派遣された国連のチームは、ゴラン高原の一部としての農場がシリア領と同一であることを間接的に保証したテンプレート:要出典

古代史

第一次世界大戦以来の歴史

コミュニティ

ゴラン高原には多くのドルーズ派およびチェルケス人の集落が存在する。イスラエル人の入植地は1970年代にカツリンの町が建設されたことに始まり、多くのキブツおよびモシャブが建設された。イスラエル以外の国はゴラン高原でのその居留地の合法性を認めていない。

シリアはゴラン高原をクネイトラ県の管轄内としているが、その県都クネイトラは第三次・第四次中東戦争の間はイスラエル占領下にあり、シリアの手に戻った現在も廃墟のまま保存されている。

外部リンク

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テンプレート:IL-stub テンプレート:古代イスラエルの町