カール1世 (オーストリア皇帝)
テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 君主 カール1世(テンプレート:Lang-de、1887年8月17日 - 1922年4月1日)は、オーストリア=ハンガリー帝国最後のオーストリア皇帝およびハンガリー国王(在位:1916年11月21日 - 1918年11月12日)。ハンガリー国王としてはカーロイ4世(テンプレート:Lang-hu)。
生涯
1887年、ハプスブルク=ロートリンゲン家の皇族オットー・フランツ・ヨーゼフ大公とザクセン国王ゲオルクの娘マリア・ヨーゼファの長男として生まれる。祖父カール・ルートヴィヒ大公はフランツ・カール大公の三男で、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世およびメキシコ皇帝マクシミリアンの弟に当たる。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥で皇位継承者に指名されていた伯父のフランツ・フェルディナント大公は、ベーメンの伯爵令嬢ゾフィー・ホテクと結婚したため、貴賤結婚を認めないハプスブルク家の家法により、その子孫の皇位継承権をすでに放棄していた。そのため、フランツ・フェルディナント大公に次ぐ皇位継承権者は、その甥であるカールと目されていた。
1911年にブルボン家の支流であるパルマ公ロベルト1世の娘ツィタと結婚した。フランツ・フェルディナント大公の貴賤結婚に落胆していたフランツ・ヨーゼフ1世はカールの結婚を歓迎し、長男オットーが生まれた際は随喜の涙を流したという。
カールは早くから軍務に就き、オーストリア陸軍少将まで昇進した。表面的には平穏な日常が続いていたが、1914年にサラエボ事件でフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されると、正式に皇位継承者に指名される。
1916年、第一次世界大戦中にフランツ・ヨーゼフ1世が86歳で死去し、カールは29歳で皇帝に即位する。1917年2月に同盟国のドイツよりドイツ元帥の称号を贈られた。
1917年、皇后の兄であるパルマ公子シクストゥスを通して、秘密裏に連合国側との平和交渉に着手した。シクストゥス公子と弟のグザヴィエ公子は、フランスとの単独講和について秘密交渉によって合意を得たが、1918年に独墺間の離反を謀ったフランス側によって暴露され、交渉は水泡に帰す。これで同盟国だったドイツの信用も失う結果となった。
1918年、同盟国側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反(チェコスロバキア、ハンガリー、ポーランドなどが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。カール1世はこれを食い止めるため11月3日に連邦制を宣言するが失敗し、同日にイタリアとヴィラ・ジュスティ休戦協定を結び無条件降伏した。11月11日には、シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」において、退位表明である国事不関与の声明を出した後、宮殿を去った。こうして、700年余りに及ぶハプスブルク家のオーストリア支配が終焉を迎えた。その後、1921年にハンガリー王国における主権を取り戻そうとした(カール1世の復帰運動)が失敗し、スイスへの受け入れも拒否されたため、ポルトガル領マデイラ島に亡命し、翌1922年4月に肺炎のため死去した。
政治的には成すところの少なかったカール1世であったが、キリスト教徒としては非常に敬虔な人物だった。死後82年目の2004年10月3日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福されている。20世紀の国家元首で福者となったのはカール1世が初めてである。
なお、カール1世の子孫はベルギー、ルクセンブルクの各国の君主の姻戚であり、それぞれ順位は低いものの、これらの君主の地位の継承権を現在でも保持している。
家族
皇后ツィタとの間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。
- オットー(1912年11月20日 - 2011年7月4日) 皇太子、ハプスブルク家前当主、元欧州議会議員。
- アーデルハイト(1914年1月3日 - 1971年10月2日)
- ローベルト(1915年2月8日 - 1996年2月7日)
- フェリックス(1916年5月31日 - 2011年9月6日)
- カール・ルートヴィヒ(1918年3月10日 - 2007年12月11日)
- ルドルフ(1919年9月5日 - 2010年3月15日)
- シャルロッテ(1921年3月1日 - 1989年7月23日)
- エリーザベト(1922年5月31日 - 1993年1月6日)
外部リンク
地位の継承 |
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