カデシュの戦い

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テンプレート:出典の明記テンプレート:Infobox Military Conflict カデシュの戦いは、紀元前1274年[1][2][出典 1]シリアオロンテス川一帯で起きた、古代エジプトヒッタイトの戦いである。史上初の公式な軍事記録に残された戦いであり、成文化された平和条約が取り交わされた史上初となる戦いであるともいわれている。

エジプトのラムセス2世は治世 4 年目にシリア地方北部に侵攻し、ヒッタイトの属国アムル(アムッル)を傘下に治めた。ヒッタイト王ムワタリはすぐにアムル奪還を目指し、同盟諸国から軍隊を集めて同地に向かった。進軍途上で二人のヒッタイトのスパイを捕らえたラムセス2世は、ヒッタイト軍がアレッポに居るとの情報をつかみ、防備の薄いうちにカデシュを陥落させようと進軍を速めた。

エジプト軍は、それぞれ神の名を冠したプタハセト(ステフ)、アメン(アモン)、ラーの四軍団に分けられていた。ラムセス2世率いるアメン軍団がカデシュに到着した時、強行軍によって後続の個々の軍団の距離が離れてしまっていた。再び二人のヒッタイト人を捕らえたラムセス2世は、先の情報が嘘であること、そしてヒッタイト軍がカデシュの丘の背後に潜んでいることを知ったが、時すでに遅く、ヒッタイトの戦車隊 2,500 両が後続のラー軍団に攻撃を仕掛けて壊滅させ、その勢いでアメン軍団にも襲い掛かった。エジプト軍の敗勢必至であったが、アムルからの援軍が突如現れ、ヒッタイトを撃退した。エジプト軍は再結集し、戦車隊を破ったが、逃れた戦車隊はオロンテス川を渡って自軍の歩兵部隊と合流した。

戦闘が膠着状態に入り、ムワタリは停戦を申し入れた。ラムセス2世はこれを受諾し、両軍とも兵を退くこととなった。ラムセス2世が負けることはなかったものの、多くの死傷者を出し、領土も獲得できなかった。また、アムルは後に再びヒッタイトの属国となった。

遺跡

粘土板に刻まれたエジプト・ヒッタイト平和条約。平和条約を作成し公表するということは当時画期的出来事であった。

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脚注

  1. 編年の仕方によるばらつきが存在するため、以前は紀元前1285年あたりとされていたが、紀元前1274年を採る例が多くなってきている。
  2. 紀元前1286年、シリアのカデシュでヒッタイトのハットゥシリ3世とエジプトのラムセス2世との間での戦いであった。

出典

  1. 大村幸弘「和平条約と粘土板が物語ること」/ 大村幸弘・永田雄三・内藤正典編著『トルコを知るための53章』明石書店 54ページ

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