オックス

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テンプレート:Infobox Musician オックス(OX)とは、グループ・サウンズ(以下GS)全盛期の1968年(昭和43年)にデビューしたグループ。

英語で雄牛のことを指すグループ名の由来はリーダーである福井利男が婦人下着メーカーのシルバー・オックスよりヒントを得て命名。

メンバー

なお、デビューに際し、所属事務所とビクターレコード(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)の思惑から福井と岩田は1949年生まれ、岡田は1951年生まれ、赤松は1952年生まれと詐称した。

経歴・概要

バンドの結成は1967年秋、キングスの元メンバーだった福井と岩田、そしてバンドが専属で活動していた大阪のサパー・クラブ「レンガ」の経営者であった清水芳夫が方々からメンバーを集める事から始まった。

因みにキングスとは、滋賀県大津市出身で1964年9月に京都で活動を始め、主に京都「べラミ」、大阪「ナンバ一番」などのジャズ喫茶で演奏を行い、関西では最古参のエレキバンドであった。バンドは1967年2月に上京し、9月には「アイ・ラヴ・ユー」でポリドール・レコードよりレコードデビューする運びとなるが福井と岩田は発売前に脱退、改めてバンドを結成すべく清水芳夫に相談し、大阪、京都神戸ジャズ喫茶を探し、まずは京都のダンス喫茶「田園」[1]に出演していたマッコイズ[2]ギタリスト杉山則夫と同バンドのドラマーである岡田志郎が「リズムギター程度ならば弾ける」[3]ということで参加、そして大阪のダンスホール「富士」で演奏していたハタリーズのオルガニスト赤松愛と、漫画トリオのバックバンド・木村幸弘とバックボーンの専属歌手である野口ヒデト[4]を誘うが、2人とも応じようとしないため、取り敢えずサンダース[5]にいた栗山純を11月1日よりボーカルに迎える。そんな頃に赤松愛より承諾の電話が鳴り、6人編成として11月10日より「レンガ」のあったビル社長の厚意によって屋上での音出しが始まった。猛練習の甲斐もあり12月1日より27日まで「ナンバ一番」のステージに立ち、日に日に彼らの人気は上昇、評判を聞き付け演奏を見に来た野口ヒデトはリーダーである福井より熱心に口説かれ、翌1968年1月1日より10日間の「ナンバ一番」公演初日を以って正式なメンバーとなる。「テル・ミー」で野口と栗山が一緒にステージを転げ回るといった演出効果を狙い、途中1月9日にはギターの杉山が家業を継ぐべく脱退、続いて20日には野口が加入するまでの代役的役割であった栗山の脱退によって5人編成へと落ち着いた。

続いて同月下旬から2月にかけスウェーデンより来日したザ・スプートニクスの前座として京都[6]・神戸・姫路・大阪を巡業、これらの公演会場で楽器を壊し、アンプを倒すといったオックスの過激な演出は話題を呼び、最終公演会場である大阪サンケイホールに至っては9割方の観客がスプートニクスではなくオックス目当てとなる始末であった。マネージャーとなっていた清水は東京進出を計画しザ・サベージパープルシャドウズが所属していた芸能プロ「ゼネラル・アート・プロデュース」(GAP)へ売り込みをかけ、早々に梅田ゴーゴー・クラブ「ゴーゴー・メキシカン」で彼らのステージを気に入ったGAPと契約し、3月初旬には東京のビクターレコードで録音を済ませた。3月17日の梅田「花馬車」に於ける大阪さよなら公演後新幹線で上京する。

渋谷区富ヶ谷で合宿生活を始めた彼らは川崎ダンスホール「フロリダ」でのステージを皮切りに東京12チャンネルの「ジャポップス・トップ10」で音楽番組へ進出、続いて彼らにとって東京のジャズ喫茶初出演となる銀座ACBでは観客が僅か3人だったものの高さ2.5mもの迫り式回転ステージより転げ落ち失神したりと過激な演出を見せた。

1968年5月5日、ついにデビュー曲「ガール・フレンド」が発売された。一方ジャズ喫茶ではステージ上の激しい動きから放心状態となり倒れ込む野口ヒデト、そして飛び乗っていたオルガンから転がり落ち気絶する赤松愛、そんな2人に触発されるかのように連鎖的に倒れていく残りのメンバー、この前代未聞の事態にファンは熱狂、瞬く間にオックスの存在は女学生[7]の間で大きな話題となる。続いて6月23日には有楽町ビデオホールに於いて「オックス・ファン・クラブ」結成の集いを開催、[8]彼らの評判を聞き付け実に1200人ものファンを動員する、この日のステージで彼らの人気は決定的なものとなり、ステージ上で気分が高揚、陶酔のあまり恍惚状態で倒れ込んでしまう特異な現象は昭和元禄のさなか失神バンドとしてその名を轟かせるまでになっていた[9]

やがて彼らのステージを観ていた女学生達までもが失神する事態へと発展する。 デビュー当初こそ物珍しさもあり、赤松愛の人気が先行するものの9月5日には2枚目のシングル「ダンシング・セブンティーン」を発売し、この頃から名実共にジュリー・ショーケン・ヒデトの時代に移行して行き彼ら3人の対談なども各雑誌等でよく見られるようになった。[10]、同月14日より全国6ヵ所での公演が始まり、初日の日比谷公会堂を始め各会場のステージで失神騒ぎを起こしたことからマスコミは過剰なまでに彼らを失神グループとして書きたてた、こうしてオックスはタイガーステンプターズと共に三大人気アイドルとして取り上げられるようになっていった。あくまでもメンバーの「失神」は演技であったが、彼らが演奏するローリング・ストーンズの「テル・ミー」で失神してしまうファンが現れたことをきっかけに11月10日の日比谷公会堂に於ける公演より同曲を自粛、だが、この日ステージ第1部の最後に演奏した「オー・ビーバー」辺りから客席の様子が怪しくなり始め、急遽第2部では趣向を変え森進一の「花と蝶」を演奏、しかし続く東京ロマンチカの「小樽のひとよ」のイントロで失神者は相次ぎ、熱狂するファンで場内が大混乱したことから公演は途中で打ち切られてしまう、なお公演会場に詰め掛けた女子学生約2000人中、興奮した約30人が矢継ぎ早に失神、15人が病院に担ぎ込まれる事態にまで発展する大騒ぎとなった。「オー・ビーバー」は自粛せざるを得なくなり、この一件から「オックス」の存在は失神GSとして名を馳せる一方で社会問題化することとなった、学校ではオックスのショーを観に行くことを固く禁じ、また会場では教師が生徒の入場を厳しく取り締まる光景が日本各地で目立つようになり、加えてPTA地婦連の抗議活動もあって地方自治体や劇場より会場の貸し渋りが増えていくこととなる。

そして12月5日には待望の「オックス・ファースト・アルバム」が発売、かねてよりステージで披露されていた問題の失神曲「オー・ビーバー」を含む4曲がオリジナル作となる彼らの意欲作であった。続く10日には3枚目となるシングル「スワンの涙」を発売。

年が明け1969年1月6日より東京12チャンネル「ジャポップス・トップ10」の後番組で9月29日まで続いた「集まれ!ジャポップス」ではホスト役に挑戦、さらに1月26日には日本テレビの公開生放送番組「ディン・ドン・ダン」がスタート、毎週日曜日の昼12時より30分枠でギターの岡田志郎が司会を務める他、アシスタントには大阪時代よりオックスとは顔馴染みである和田アキ子を起用、番組テーマ曲を始め、歌と踊り、はたまたコントに至るまでオックスが担当し番組は3月30日まで続いた。そして3月25日に発売された名古屋市公会堂での実況録音によるアルバム「テルミー/オックス・オン・ステージNO.1」では実況録音盤ということで失神防止のためにロックと民謡を交互に演奏するといった苦肉の策が用いられ、ラストの「テル・ミー」に至っては通常[11]とは異なり、全ての楽器演奏のまま終わるといった彼らにとって不完全燃焼となってはいるものの貴重な公式ライブ音源となっている。同3月25日にはシングル「僕は燃えてる」を発売。3月28日より3日間は浅草国際劇場にて3部構成からなる「オックス・ショー」が開催され、「ヒデトのウエストサイド物語」、「愛の牛若丸」といった演劇を交え、趣向を凝らした内容であった。さらにトリでは禁じられていた問題曲[12]「テル・ミー」が演奏され、観客席は騒然、野口ヒデトの倒れ込む姿を以って幕が下りる。

浅草国際劇場での公演が大成功を収めた事で自信を付けた彼らだが5月にはグループ存亡の危機とも言うべき事態が待ち構えていた、5月5日の正午と夕方4時に土浦市民会館で行われる公演に備え、オックスのメンバーは前日より現地のホテルへチェックインしていたところ、赤松愛は忘れ物を理由に東京へ戻ってしまい、翌日の開演前になっても現れず、慌てた主催者側は『赤松は前日の下館公演の後いったん都内のホテルへ戻り、只今こちらへ向かっている最中ではございますが、なにぶん交通渋滞につき遅れが生じておる次第であります』と取り繕うも怒った赤松のファンが帰ってしまったことによって客席は7割の入りという有り様になってしまう、突然の事態にメンバーが困惑する中、バンドの異変を嗅ぎ付けたマスコミは「失神GSオックスの赤松愛が脱退!」との報道をその日の内に流し、瞬く間に騒動は広まった。都内のホテルに留まっていた赤松の言い分として『個性がなく、フォーク歌謡曲、挙句の果てには軍歌まで演奏させられる低劣さに加え、4月分の給料は1900円、一番貰っている人でさえ6千円、失神騒ぎやロボットとして操られることに嫌気が差した』一方所属事務所であるホリプロ社長堀威夫の言い分は『契約時にマネージャーである清水を含めメンバーそれぞれに月給3万円とテレビ、ステージでの歩合が支払われることになっているから少なくとも1人あたり10万円は受け取っているはず、だいいち4月下旬の沖縄公演では支度金として1人10万円与えている、赤松の言う額は到底信じ難い!』[13]オックスは野口ヒデトと赤松愛という異なる二本柱による相乗効果が人気を牽引していただけにバンドの行く末は暗雲が立ち込め始める。

急遽、後釜として迎えられたのは大阪時代に和田アキ子の演奏を担当していたグランプリズのオルガニスト田浦久幸で、彼はホリプロより新たにデビューするオリーブというGSのメンバーになるべく上京していた。赤松の脱退騒動から5日後の5月10日に行われたデビュー1周年記念大阪公演では田浦幸の芸名で早くもステージに立つこととなった。田浦がレコーディング初参加となるムード歌謡色の強い新曲「ロザリオは永遠に[14]が6月25日に発売された。だがむしろ夏向きで躍動感あるB面の「真夏のフラメンコ」をA面にすべきであったと、次第に日本ビクター及び各ラジオ局は気付くも、もはや歌謡界においてグループサウンズという在り方そのものが難しくなっていただけに「後の祭り」となる。

1969年は3月にタイガースのギター担当である加橋かつみ、そして5月には赤松愛と主要GSより脱退が相次ぐ、テンプターズと共にGSブーム中期から後期にかけて人気を担っていたオックスだったが時を同じくして歌謡曲フォークが台頭し始めたことによって1967年初夏より続いたGSブームは夏を目前にしてまさに終息を迎えようとしていた、やがて流行に敏感なマスコミはまるで潮が引くかの如くGSより距離を置き始める。

10月に入り新曲「神にそむいて」が発売された。オックスらしさは戻ったものの、すっかり歌謡界の流れは変わってしまい、グループサウンズという言葉すら過去のものとなっていた。ちなみに彼らはこの年のブロマイド売上実績でタイガースを大きく引き離し第1位に輝いている。

翌1970年に入るとTVの仕事は激減し、日本各地のジャズ喫茶、ゴーゴークラブ遊園地などが主な活動の場となっていく、かつて栄華を極めた他のGSも同様の境遇を余儀なくされていた。5月23日にはデビュー2周年記念リサイタル「E・プレスリーをぶっ飛ばせ!」が大手町サンケイホールで開催され、メンバーは意気揚々とした姿を披露[15]。やがて、田浦幸は俳優として夏夕介を名乗り日活野良猫ロックシリーズに出演したり、野口ヒデトは朝のワイドショー内でコーナーを担当するなど音楽から離れた活動が増え始める一方、同年末頃からは当時ニュー・ロックと呼ばれたレッド・ツェッペリングランド・ファンク・レイルロード、そしてフリー、さらにはザ・フーのアルバム「ロック・オペラ・トミー」の曲などをステージで演奏。また映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』の影響からか髪は伸ばし、秋頃からは揃いの衣装ではなくジーンズなどの砕けたいでたちとなっていた、それはかつて少女マンガ的な甘くメルヘンチックなコスチュームと歌声で多くの少女ファンを夢中にさせた彼らの姿ではなく、加えて格段に上達していた演奏力と音楽性の変化はもはやファンにとって受け入れ難いものとなってしまう。これ以上GSとして続けていくことの難しさや時勢もあり、翌1971年1月の池袋ACBに於けるステージにてグループ解散を表明、日本各地を2ヶ月間解散公演として回った後、ホリプロ側より最終公演会場として新宿厚生年金会館を提示されるもリーダーである福井を始めとしたメンバーの「ジャズ喫茶から人気が出て来たバンドなんだからジャズ喫茶で終わろう!」とする意向が尊重され5月29日より31日にかけ池袋ACBで計15回行われた公演を以てデビューから満3年の活動に終止符を打った。

ディスコグラフィー

シングル

  1. ガール・フレンド/花の指環(1968.5.5) オリコン6位。
  2. ダンシング・セブンティーン/僕のハートをどうぞ(1968.9.5) オリコン28位。
  3. スワンの涙/オックス・クライ(1968.12.10) オリコン7位。
  4. 僕は燃えてる/夜明けのオックス(1969.3.25) オリコン18位。
  5. ロザリオは永遠に/真夏のフラメンコ(1969.6.25) オリコン32位。
  6. 神にそむいて/夜明けの光(1969.10.10) オリコン41位。
  7. 許してくれ/ジャスト・ア・リトル・ラブ(1970.2.5) オリコン64位。
  8. 僕をあげます/花の時間(1970.5.5) オリコン91位。
  9. もうどうにもならない/ふりむきもしないで(1970.12.5) オリコン100位圏外。 

アルバム

  1. オックス・ファースト・アルバム
  2. テル・ミー/オックス・オン・ステージNO.1

非売品

電電公社記念盤(1968年)B面
  • ひとりの電話 作詞:上田公彦/作曲:筒美京平
A面は「お世話になりますダイヤルさん」(佐良直美

メディア

関連項目

参考文献

  • オックス・コンプリート・コレクション VICL60945~46 ビクターエンタテインメントのブックレット 2 - 5頁、11 - 13頁、16頁。 

外部リンク

脚注

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テンプレート:オックス

テンプレート:10大グループ・サウンズ
  1. ファニーズ参加前の沢田研二が専属。
  2. アメリカのバンド「マッコイズ」とは異なる。
  3. 赤松愛のオルガンをフィーチャリングすることで補った。
  4. 噂を聞き付けナンバ一番を訪れた福井は「テル・ミー」でステージ狭しと転げ回る野口の姿を見て直感し、木村幸弘とバックボーンを辞めオックスへ来るよう促す。
  5. 京都のダンス喫茶「田園」時代に沢田研二が在籍。
  6. 公演終了後に旅館を訪れたスプートニクスのメンバーから「お前らはザ・フーに劣らずグレイトだ!」と激励される。さらには「これ(楽器を壊すパフォーマンス)を続けなさい」ともアドバイスされたという。ただし野口は当時、ザ・フーの存在を知らなかったという。
  7. オックスのファン層は小学生から高校生までが中心であった。
  8. この頃に所属事務所であるGAPはホリプロに吸収合併された。
  9. こうした「失神」は、ジ・アップル、ファンキー・プリンスといった、他の後期GSでも取り入れていたという 。
  10. またこの頃に目黒区青葉台の合宿所へ引っ越し。
  11. 野口ヒデトがドラムを放り投げ、アンプを倒すなどして幕が下りる頃にはベースの演奏のみ。
  12. 初日を以って「オー・ビーバー」と共に解禁。
  13. グループサウンズ最高 柴田陽平著 ブレーン出版 1981年9月刊 190頁、192頁、読売新聞 読売新聞社 1969年5月7日刊。
  14. 当時から平成初期にかけ日本を代表する作曲家筒美京平と、GSを始め数多くの作品を手掛けた作詞家橋本淳とのコンビでは、オックスにとって最後の曲。しかしこの曲は、担当プロデューサーの趣味か、はたまた歌謡界の時勢を考慮してなのか、何れにせよオックスのイメージとは相反する曲調であった。
  15. 近代映画 近代映画社 1970年7月号 141頁。