エーリク7世 (デンマーク王)

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エーリク・ア・ポンメルン

エーリク・ア・ポンメルンテンプレート:Lang-daノルウェー語Erik av Pommernテンプレート:Lang-sv1382年 - 1459年)は、ノルウェー国王エイリーク3世Eirik III)、在位1389年 - 1442年)、デンマーク国王エーリク7世Erik VII)、在位1396年 - 1439年)、およびスウェーデン国王エリク13世Eric XIII)、在位1396年 - 1439年)。1397年マルグレーテ1世によるカルマル同盟の成立により、その初代君主となった。

エーリクはポメラニア公ヴラティスラフ7世とマリアの息子ボギスラフ(Bogislav)として生まれた。母マリアは、デンマーク国王ヴァルデマー4世の娘でマルグレーテの姉インゲボーと、スウェーデン国王マグヌス3世(または1世)の曾孫メクレンブルク=シュヴェリーンハインリヒ3世の娘であった。

エーリクは大叔母マルグレーテ1世によって、まず1389年にノルウェー王に即けられた。1395年には父の死によって、エーリヒ1世(Erich I)としてポメラニア公位も継承している。翌1396年、大叔父(ハインリヒ3世の弟)アルブレクトをマルグレーテが廃位させ、代わってエーリクをスウェーデン王位に即けるとともに、デンマーク王位にも即けた。

エーリクはマルグレーテの摂政を受け、成人後も1412年にマルグレーテが亡くなるまで実質的に共同統治者であった。1406年イングランドヘンリー4世の王女フィリッパと結婚した。

デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3国は、名目上は対等の同盟であったが、実態はデンマークを盟主にした同君連合でもあった。エーリクはシュレースヴィヒおよびホルシュタインの併合を目指したが、結局失敗に終わった。このため財政難を引き起こし、エーリクはこの穴埋めにノルウェー・スウェーデンに重税を課して立て直しを図ったが、両国は反発し、不満がくすぶり始める。

しかしエーリクは、デンマーク・スウェーデン間のエーレスンド海峡に通航する船舶から海峡税を課すことを決め、これには成功した。この海峡税は、デンマークに莫大な財政収入をもたらすことになった。また海峡の両岸に城を築き、通過する船舶を監視して威圧をかけた。

後年、エーリクは貴族の台頭と専横に悩まされることになる。1435年には、スウェーデンで最初の独立反乱の種がまかれた。結局エーリクは、王権を強化することなく退位を余儀なくされた。貴族の勢力が強大化し、これを押し止めることが出来なくなっていったのである。エーリクには子供がなく、ポメラニアの従弟ボギスラフ9世テンプレート:Enlinkを後継者に推したが、貴族たちは反対し、彼らはエーリクの甥であるプファルツ=ノイマルクト家クリストファ・ア・バイエルンを後継者に選出した。

関連項目

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テンプレート:S-bef テンプレート:S-ttl テンプレート:S-aft |- テンプレート:S-ttl |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
アルブレクト |style="width:40%; text-align:center"|スウェーデン国王
1396年 - 1439年
1412年までマルグレーテ1世が摂政 |style="width:30%"|次代:
カール8世(摂政)

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テンプレート:デンマーク王