アーラムギール2世

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テンプレート:基礎情報 君主 アーラムギール2世(Alamgir II, 1699年6月6日 - 1759年11月29日)は、北インドムガル帝国第14代君主(在位:1754年 - 1759年)。父は第8代君主ジャハーンダール・シャー、母はラール・クンワール

生涯

即位

1754年、先帝アフマド・シャーガーズィー・ウッディーンに退位させられ、その後を受けて即位した[1][2]

産業革命と帝国主義

その治世を一貫して後述の西洋列強の覇権闘争に翻弄され、地方勢力の独立や戦争に加え、皇帝には太刀打ちできないさらなる強敵が西洋から現れてきた。

インドは綿花など優れた一次産品で列強の注目を引き、17世紀以降列強各国が「東インド会社」を設置、インドの各地に商館ができてそれら商品の取引が行われた。一方、18世紀のヨーロッパでは、政治面では主権国家体制の端緒としての君主独裁政治(絶対王政)が次第に破壊されてブルジョワ革命が進み、人権をもつ市民という意識が西洋人の間で高まっていった。この間、産業面でも生産技術や生産体系が発達し、資本主義が空前の発展を遂げた。ところが、その進展段階で工場用地や住居用地などの土地不足が問題となった。それならば外国へ進出して自国の市場を広げようということで、資本主義は新たに帝国主義という植民地競争の様相を呈するようになる。

こうした事情から、ヨーロッパの列強諸国はインドや東南アジアにおける植民地を問題にしてたびたび争った。インドでは、フランスイギリスの勢力が激しい戦争を繰り広げた。1757年カーナティック戦争の最中にベンガルでプラッシーの戦いが勃発。ベンガルの地方勢力と結んだフランス東インド会社の軍隊はクライヴ率いるイギリス東インド会社に敗れた。ベンガルにおけるイギリスの支配権はこれで確定し、フランスの勢力は主に東南アジアへと移った。

ムガル帝国にはこれらの争いにつけいる隙が無かったということは、帝国にかつての空前の繁栄は戻らないということをはっきりと示すものであった。以来、帝国の運命は(主にイギリスの)産業革命に翻弄されることになる。

1759年11月29日に宰相ガーズィー・ウッディーンによって暗殺された(60歳没)[3][4]。玉座はシャー・アーラム2世に継がれたが、皇帝の称号は完全に名ばかりのものとなった[5]

次代皇帝について

1759年~60年の限られた時期に在位したシャー・ジャハーン3世を歴代皇帝の一人と数える場合がある。

脚注

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参考文献

  • フランシス・ロビンソン著、小名康之監修・月森左知訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』創元社、2009年

関連項目

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  1. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p257
  2. Delhi 12
  3. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p258
  4. Delhi 12
  5. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p259