アタナソフ&ベリー・コンピュータ

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ファイル:Atanasoff-Berry Computer.jpg
アイオワ州立大学に展示されているABCの復元機

アタナソフ&ベリー・コンピュータ(Atanasoff-Berry Computer)は、最初期の電子式ディジタル計算装置のひとつ(one of the first electronic digital computing devices)である。しばしばそのイニシャルから「ABC」と呼ばれる。

1937年から1942年にかけてアイオワ州立大学で、ジョン・ビンセント・アタナソフクリフォード・E・ベリーによって開発された。二進法の採用、並列コンピューティング再生式メモリ、メモリと演算機能の分離といった数々のコンピュータに関する発明を成し遂げた。アタナソフは1990年11月13日に当時の大統領ジョージ・H・W・ブッシュからホワイトハウスにてアメリカ国家技術賞を授与された。

概要

ABCは、アイオワ州立大学物理学部の建物の地階で組み立てられた。資金不足のために2年以上を費やし、1939年10月に最初の試作機が完成し、11月に概念実証デモンストレーションが行われた。ABCは約 1.6km以上の電線と280本の双三極真空管と31個のサイラトロンから構成され、重量は320kg以上であり、机ほどの大きさであった。プログラム内蔵方式ではないところがその後のEDVACManchester Mark I等のコンピュータとは異なっている。

しかし、ABCは現代のコンピュータでも使われている3つのアイデアを実装していた。

  1. 二進法を使って数値やデータを表す。
  2. 機械的なもの(歯車や機械的なスイッチ)を使わず、全て電子的に計算を行う。
  3. 計算をする部分とメモリを分離する。

さらに、ABCは再生式キャパシタメモリを使っており、これは原理的にはDRAMと同じである。ABCのメモリはドラムのペアからできていて、それぞれに1600個のコンデンサを内蔵している。このドラムが共通の回転軸上で1秒間に1回転する。コンデンサは50個一組で「バンド」を形成し、32バンドがドラム内に構成されている(そのうち30バンドがアクティブで、2バンドは故障発生時のスペア)。これにより、マシンは1秒間に30回の加減算ができた。データは50ビットの固定小数点数で表現される。原理的には 1秒間に60回、50ビットの固定小数点数を格納または演算することができる(3000ビット/秒)。交流電源の周波数である60Hz がマシンの基本動作周波数となっている。

論理機能は完全に電子化されていて、真空管で実装されている。インバーターや2入力/3入力のゲートから回路が構成されている。どのゲートの入出力電圧も同じに設定されていて、各ゲートは論理機能を決定する抵抗分圧ネットワークとビット反転用の真空管増幅器から構成されている。

ABCは、それ以前の計算機械からは大きな前進だったが、プログラム内蔵式コンピュータではなかった。操作者は機能を設定するために制御スイッチを操作する必要があった。ちょうど後のコンピュータでブートプログラムを入力するやりかたと一緒である。操作できる処理としては、メモリの読み書き、十進法と二進法の相互変換、連立方程式の整理などで、スイッチで足りない部分はジャンパー線で結線して操作した。

入出力は二種類の形態があった。一次ユーザ入出力と中間結果入出力である。中間結果格納域を直接操作するのは、初期の問題が大きすぎてメモリに入りきらない場合である。中間結果は静電性の紙に書き込むことができ、一枚の紙に1秒間で30×50ビット(1500ビット)が直接静電的に記録された。この機能のエラー発生率は10万回の演算について1回であり、紙に塗布される静電材料の均一性が十分でなかったために起きる問題だった。この問題はアタナソフが第二次世界大戦に関連した仕事で大学を離れるまで解決しなかった。

一次ユーザ入力はパンチカードを使ったもので、出力は操作パネル上の表示である。

ABCは連立一次方程式を解くように設計されていた。当時としては画期的な最大29元の連立方程式を解くことができるマシンだった[1]。この規模の問題はアタナソフの所属していた物理学部では一般的になりつつあった。基本的に29個の変数を持つ一次方程式をふたつ入力して、ひとつの変数を排除する。これを外部からの操作で繰り返して方程式を入力していき、ひとつずつ変数を排除していく。さらにもう一度全部の方程式を入力していくと全部の変数の値を求めることができる。

当初、資金は同様の問題を解くことに興味を持っていた農学部から出ていた(経済分析と統計解析で使用)。デモ実施後の資金はニューヨークのResearch Corporationから提供された。

ペンシルベニア大学ジョン・エッカートジョン・モークリーは後にENIACで電子計算機の特許を獲得した。モークリーは1941年6月にABCを調査しており、ENIACの設計はこれに影響されていると言われたが本人は否定している。1967年、ハネウェル社はスペリー・ランド社と特許権侵害について法廷で争ったが、この結果としてENIACの特許は無効とされ(1973年10月19日)、ABCによる先取点についていくつかの事実認定がなされた。この結果を、『ENIAC神話の崩れた日』といった書籍のタイトルに見られるが如く、センセーショナルに取り上げる者もいる[2]

アタナソフは「電子計算機を発明し開発した者は皆賞賛されてしかるべきだ」と寛大に述べた。

オリジナルのABCは、大学が地階を教室に改造したときに大きすぎてドアの部分が通せなかったため解体され、部品はほとんど廃棄された。1997年、大学キャンパス内にあるエネルギー省エイムズ研究所(Ames Laboratory)の調査チームが動作するABCの複製を、真空管や古い部品を使って35万ドルで製作した。復元作業にあたったジョン・ガスタフソンによれば、当時の製造費用は今の金額で30万ドルに相当するが、ABCの修復のための部品が入手しにくくこれだけの費用がかかったとしている。この複製によりABCは本当に設計の意図通りに動作したのかという疑問を払拭した。現在ABCは大学の「Durham Center for Computation and Communication」の1階ロビーに永久展示されている。

注・文献

  1. 当時、連立方程式はアナログ計算機で解かれていた。参考 http://museum.ipsj.or.jp/computer/dawn/0057.html
  2. 『ENIAC神話の崩れた日』ISBN 4769350880

外部リンク