藤田康邦
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藤田 康邦(ふじた やすくに、1513年(永正10年)? - 1555年8月29日(天文24年8月13日))は、戦国時代の武将。武蔵国の豪族藤田氏当主。右衛門佐。初名は重利(しげとし)、のち康邦に改名。改名後の諱は泰邦、安国とも書く。
はじめ山内上杉氏に仕え、天神山城を守っていた。しかし北条氏康の攻撃を受けて降伏し、その家臣となった。このとき、氏康の四男・乙千代丸(氏邦)に娘(大福御前)を娶らせ、藤田氏の家督を譲っている。そして自らは用土城に居城を移し、用土氏を称した。名を重利から康邦(氏康の「康」と氏邦の「邦」(※「邦」については逆に、養子となった乙千代丸に与えて氏邦と名乗らせた可能性もある))に改めたのもこの頃とされる。
ただし、以上の事蹟については異説も多く存在し、生没年など康邦の実像は解明されていない部分も多い。
康邦には実子に用土重連・藤田信吉(孫説も有り)がいたが、彼らは北条家にとっては邪魔者でしかなかったようであり、重連は沼田城城代に任じられたものの氏邦に毒殺され、信吉は武田勝頼に寝返っている。