由良成繁

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テンプレート:Redirectテンプレート:基礎情報 武士 由良 成繁(ゆら なりしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国戦国武将横瀬泰繁の長男。曽祖父に同名の人物(別名・業繁)がいる(『群馬県史』)。

生涯

永正3年(1506年)、上野国の戦国大名・横瀬泰繁の長男として誕生。横瀬氏は、小野氏横山氏一族であり、新田四天王の一人由良具滋の末裔にあたる。

はじめ岩松氏に家老として仕えていたが、下克上を起こして主君の岩松守純から新田金山城を奪い、姓を由良に改めた。これは、由良氏が戦国大名として独立したことを表明するためであったといわれている。

由良氏の領国である上野国は、武田氏上杉氏古河公方足利氏後北条氏と周囲を強大な勢力に囲まれていた。そのため、関東管領上杉氏、後北条氏、上杉謙信、再度後北条氏と次々と所属勢力を変え生き残りを図った。特に永禄12年(1569年)には北条氏康のもとで、長尾当長と共に越相同盟の成立に大いに貢献した。

天正元年(1573年)に館林城を陥落させ、後桐生氏の居城である柄杓山城を落として同氏を滅ぼすと、居城であった金山城を嫡男の国繁に譲り、天正2年(1574年)には柄杓山城に隠居した。鳳仙寺を建立し城下町を整備するなど善政を敷いた。

天正6年(1578年)に桐生で死去した。

なお妻の妙印尼は、館林城主・赤井重秀の娘で、天正12年(1584年)に金山城が北条氏に攻撃された際、71歳で篭城戦を指揮した女傑である。


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