昌泰の変
昌泰の変(しょうたいのへん)は、901年(昌泰4年)1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件。
概要
一般的にその背景には時平と道真の確執が主な理由とされるが、それだけが理由ではない。
宇多上皇(程なく法皇になる)は醍醐天皇に譲位した後も、『寛平御遺誡』という君主の心構えを新帝に説くばかりでなく、道真を始め源善・中納言源希・蔵人頭平季長・侍従藤原忠平といったいわゆる「寛平の治」の推進役だった一種の側近集団を新帝の周囲に配置して新帝の政策を主導しようと図った。これに対して時平や大納言源光ら上級貴族のみならず、藤原清貫・藤原菅根・三善清行ら中下級貴族を含めた激しい反発があったともいわれる。
その一方で醍醐天皇の即位当時、仁明天皇の嫡流子孫である元良親王(陽成天皇皇子)らを皇位継承者に擁立する動きに強い警戒感を抱いていた宇多法皇は自分の同母妹為子内親王を醍醐天皇の妃として男子出生を願ったが内親王は早世した。そこで醍醐天皇は藤原時平と相談してその妹である藤原穏子の入内を進めた。だが、宇多法皇はこれを時平が外戚の地位を狙うものとして強く反発した[1]。阿衡事件(阿衡の紛議)の苦い経験から、藤原氏腹の皇子の誕生を望まなかった宇多上皇と藤原氏との連携によって政権の安定を図る醍醐天皇の路線対立が明確になっていった[2]。
やがて、宇多法皇が道真の娘婿でもある斉世親王を皇太弟に立てようとしているという風説[3]が流れると、宇多上皇や道真の政治手法に密かに不満を抱いていた醍醐天皇と藤原時平、藤原菅根(折りしも病死した平季長の後任の蔵人頭に就任していた)らが政治の主導権を奪還せんとしたのである。1月25日、突如醍醐天皇の宣命によって道真は大宰権帥に降格された[4]。
この政変で道真・善(出雲権守に左遷)を排斥、変の翌年に連座を免れた源希も病死、同じく藤原忠平も政治の中枢から事実上追われることになり、醍醐天皇・藤原時平派の政治的勝利に終わった。直後に醍醐天皇は穏子を女御に格上げして事実上の正妃として遇し、その所生の皇子による直系継承によって藤原氏の支持を得た皇位継承を図ることとなる。これは、宇多上皇が進めてきた藤原氏の抑制方針を大きく変えるものであった。天皇や時平は「延喜の治」と呼ばれる自らが主導する政治改革を目指すものの、変からわずか8年後に時平が急死、続いて醍醐天皇も病気がちとなり、政治権力の中心は再度宇多法皇と藤原忠平の手中に帰する事になった。
この政変を巡っては、道真の死後に起きた天変地異が道真の怨霊の仕業と考えられて(→清涼殿落雷事件)、道真の名誉回復とともに政変に関する資料が廃棄されたと考えられていること、また醍醐天皇の治世が理想的な親政として評価された余りに、皇位継承を巡って宇多法皇と醍醐天皇の間に温度差があったことなどが軽視されたことなどにより、真相については十分に明らかになっていない面が多い。
脚注
- ↑ 藤原忠平の子・藤原師輔の日記『九暦』天暦4年6月15日条には、入内は為子の生前から時平と天皇の間で進められていたが、宇多法皇が穏子の入内に強く反発して為子の没後まで入内が認められず、その子保明親王の立太子にも強く反対したという。師輔は宇多法皇側近の忠平の子で、穏子の庇護を受けていたことから、穏子を巡る事情に通じていた可能性が高い。
- ↑ 宇多法皇自身も時平の妹の1人である藤原温子を女御としているが、疎遠であったと言われている。なお、醍醐天皇の外祖父藤原高藤は藤原基経の従兄弟であるが、その父が早世していたために官位に恵まれず、病死直前に天皇の外祖父という理由で内大臣に任じられたという経歴のために政治的な影響力は無かった。
- ↑ これについては道真の冤罪説が強いが、この事件当時の醍醐天皇には穏子所生を含めて男子はいなかったことが注目される。宇多法皇が元良親王らを牽制するために、早い時期に次期皇位継承者を定めようとすれば当時男子のいなかった醍醐の弟の中で最年長者(第二皇子斉中親王は既に薨去)である第三皇子斉世親王の立太子が有力視され、しかも『寛平御遺誡』には宇多上皇自らが醍醐天皇の立太子の際に道真にのみ意見を求めたことを記している。宇多法皇が斉世親王を立太子して皇位継承の安定化を図った場合、当然自己の子孫への直系継承を望む醍醐天皇とは対立が生じることになる。たとえ道真自身に斉世親王擁立の考えが無かったとしても、醍醐天皇からその疑惑を持たれる可能性は十分にあったのである。なお、斉世親王は道真左遷直後の2月2日に出家している。
- ↑ 『政事要略』所収のこの日の宣命において、醍醐天皇は道真が寒門から大臣に上げてもらったにも関わらず、それに飽き足らず専権の野心を抱いて、宇多法皇を欺き騙して天皇廃立を企んで親子の慈しみを離間させ、兄弟愛を激波(破壊)したと非難している。醍醐天皇は父への非難は避けているものの、親子兄弟間の確執が実際にあったことを認めている。