惟明親王
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惟明親王(これあきしんのう、治承3年(1179年) - 承久3年5月3日(1221年5月25日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての皇族。高倉天皇の第三皇子。品位は三品。異称は大炊御門宮(おおいみかどのみや)。
経歴
寿永2年(1183年)に異母兄・安徳天皇が平家の都落ちに伴って西国へ下り、さらに同じく異母兄の守貞親王も皇太子に擬せられてこれに同行したことから、1歳年下の異母弟・尊成親王とともに皇嗣の有力候補となる。しかし、母親(平範子)の身分が低かったこと、さらに異母弟・尊成親王の方が祖父の後白河法皇に可愛がられていた事から、皇位は尊成親王が継いだ(後鳥羽天皇)。
文治5年(1189年)親王宣下を受け、建久6年(1195年)に後鳥羽天皇の生母・七条院(藤原殖子)の猶子となり元服して三品に叙せられる。承元4年(1210年)後鳥羽天皇の皇子・順徳天皇が即位すると、皇位継承の望みがなくなった不遇を儚んで、翌承元5年(1211年)出家し、以後は聖円入道親王と名乗った。承久の乱直前の承久3年(1221年)5月3日薨去。享年43。
和歌に優れており、式子内親王や藤原定家などの当代随一の歌人とも親交が深かった。『新古今和歌集』(6首)以降の勅撰和歌集に33首が収められている[1]。
系譜
脚注
参考文献
- 『本朝皇胤紹運録』