宇和島城
宇和島城(うわじまじょう)は、四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった城である。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。国の史跡に指定されている。
目次
概要
宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸とも)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある[1]。
現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。五角形平面の縄張り「空角の経始(あきかくのなわ)」は四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、現に幕府の隠密が江戸に送った密書には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記された。
高虎の発想は、城を攻める側は当然方形の縄張を予想して攻めてくる。しかし実際は五角形だから、一辺が空角になる。つまり、城を攻める側にとって、完全に死角になってしまい、攻撃は手薄になる。いわば、この一辺の空角は、敵の攻撃を避けられるとともに、敵を攻撃する出撃口ともなり得る。そればかりではない。この秘かな空角は、物資搬入口ともなり、城から落ちのびる場合の抜け道ともなる。これは守城の作戦上、効果は絶大なものといえるだろう。当時の築城術でこのようなからくりを用いた城は他にはなかった。
さらに宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。宇和島城には「空角の経始」、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だったのである。
城を囲む五角形の堀は、高虎の後の大名にも代々受け継がれたが、現在は堀も海も埋め立てられている。明治以降は、大半の建物が撤去されたが天守、大手門などが残され、昭和の空襲により大手門を焼失して現在は、天守(国の重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣が現存する。
歴史・沿革
平安時代-安土桃山時代
- 天慶4年(941年) 警固使・橘遠保が藤原純友の乱の際にこの地に砦を構えたとされる。
- 嘉禎2年(1236年) 西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、砦程度の城を置く。当時は丸串城と呼ばれていた。
- 天文15年(1546年) 家藤監物が城主となる。大友氏、長宗我部氏等の侵攻に耐えた。
- 天正3年(1575年) 家藤監物が去り、西園寺宣久の居城となる。
- 天正13年(1585年) 豊臣秀吉の四国討伐により、伊予国は小早川隆景の所領となる。隆景家臣の持田右京が城代となる。
- 天正15年(1587年) 隆景は筑前国に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城。戸田与左衛門が城代となった。
- 文禄4年(1595年) 藤堂高虎が宇和郡7万石を与えられ入城。
- 慶長元年(1596年) 高虎、大改修に着手。
- 慶長6年(1601年) 現在の姿の城が完成。宇和島城と名付けられる。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に国府(後の今治市)に移封となっていたが、この年、城の完成を見て国府に移った。
江戸時代
- 慶長13年(1608年) 富田信高が伊勢国より転封し入城。
- 慶長18年(1613年) 信高、改易となる。宇和郡は徳川幕府直轄となる。藤堂高虎が代官となり藤堂良勝を城代とした。
- 慶長19年(1614年) 伊達政宗の長男(庶子のため嫡子ではない)・伊達秀宗が10万石で入封。
- 元和元年(1615年) 秀宗、入城。
- 寛文2年(1662年) 2代藩主・宗利、老朽化した城の改修に着手。
- 寛文11年(1671年) 改修竣工。
近現代
- 明治4年(1871年) 明治政府により城は兵部省に帰属。大阪鎮台の所管となる。
- 明治33年(1900年)頃から櫓・城門などが解体される。
- 昭和9年(1934年) 天守・大手門(追手門)が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。
- 昭和12年(1937年)12月21日 国の史跡に指定される。管理団体は宇和島市。
- 昭和20年(1945年)7月12日 太平洋戦争の空襲により大手門焼失。
- 昭和24年(1949年) 伊達家、天守と城山の大半を宇和島市に寄贈。市の管理下に置かれる。
- 昭和25年(1950年) 文化財保護法の施行により天守が重要文化財に指定される。
- 昭和35年 - 昭和37年(1960年 - 1962年) 天守を解体修理。
- 平成18年(2006年)4月6日 日本100名城(83番)に選定された。
遺構
天守
当初、高虎による複合式望楼型の三重天守が上がっていたが、寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)に伊達宗利によって行われた改修の際に修築の名目で現在の独立式層塔型3重3階に建て替えられたという。
- 慶長期
- 高虎の天守は、自然の岩盤の上に地業を施して天守台とし、初重に大入母屋屋根、2重目以上の平面は複雑に突出した外観であったが、初重平面はほぼ歪みのない正方形で、広島大学大学院教授・三浦正幸は、この技術が後の歪みのない正方形平面を必要とする層塔型天守に応用されることとなったのであるという。実際にこの後、高虎によって亀山城に層塔型の天守が建てられている[2]。
- 寛文期
- 現在に伝わる天守である。廊下の内側に障子戸が残る形式は現存唯一とされ、また畳敷きの名残である「高い敷居」があり、これらは簡略化されがちとされる江戸時代中期の天守に安土桃山時代から江戸時代初期にかけての古い意匠が用いられたとされる。壁には狭間や石落としなど戦いの備えが一切なく、窓には縦格子があるものの、五角形にして外を眺めやすくしている。使い勝手や装飾が重視されていることから無防備な太平の世の建築であるといわれるが[3]、実際はすべての窓の下の腰壁には鉄砲掛けがあり、腰程の高さにあけられた窓から直接射撃を行う設計であったと考えられている[4]。
外観は長押形で飾られた白漆喰総塗籠の外壁仕上げの各重に千鳥破風、唐破風を配置した外観である。天守の入り口には唐破風屋根で開放的な造りの玄関が用いられている。妻飾りには伊達家の家紋が付けられ、上から「九曜」、「宇和島笹」、「竪三つ引」の紋が見られ、また屋根瓦にも「九曜」が用いられている。
現地情報
交通
料金
- 大人:200円
- 小人:100円
利用情報
参考文献
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- 『宇和島城』 宇和島市教育委員会文化課・宇和島市観光情報センター 作成パンフレット
脚注
関連項目
外部リンク
- 宇和島城公式サイト - 宇和島市
- 宇和島城 - 宇和島市観光協会
- 国指定文化財等データベース